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弘海
飛び散るグラスと、ぶちまけられたフライドポテト。ついでに隣の客のビールまでが床にこぼれる。
殴り飛ばされた男は顔中に割れたガラスを浴びて、ひきつった顔でカウンターを見上げた。
「このゲス野郎。再起不能にしてやるよ」
皆川弘海(みながわひろみ)は、男の股間に踵を乗せて言った。
整った顔立ちは怒りに満ちて、余計に男の恐怖感を煽る。
脚に力が入る直前に、倒れた男はひいひい言いながら這うように店を出て行った。
プラチナ・シルバーの背中まで伸ばした髪をかきあげて、弘海は機嫌悪く椅子に腰を下ろした。
ゲイバー「Lick」のママ、理玖(りく)が、カウンターの奥でため息をつく。
「ちょっとお・・・・・・・バカラ割れたんだけど」
「あ、ごめ~ん、つい・・・・・・・」
「ついじゃない!これで今月二回目!」
「だって!あのクソ野郎、あたしの部屋にネコ連れ込んでハメてやがったのよ!あたしの前だとバリネコのくせして・・・・・・・」
「んなこと知らないわよ!わざわざここで喧嘩しなくてもいいでしょーが!迷惑だっつーの!」
あまりの理玖の勢いに、弘海は上目づかいで、顔の前で手を合わせた。
「ごめん、もうしない。ほんとに」
「信じてないけどね。そこ、片づけといて」
弘海は、この日五年付き合った男と別れた。
「Lick」のボーイとして働いているが、派手な男関係で客ともトラブルを起こす。身体のラインがよく見える黒いTシャツに黒のデニム。同じ物をたくさん持っていて、それ以外は着ない。それが一番自分をセクシーに見せることを、弘海自身がよく知っていた。ハーフかクオーターかと言われることの多い顔立ちは色っぽく、甘い。弘海目当ての客も、未だに後を絶たない。
今日もフリーになった弘海に近づく男がいた。
「ねえ、別れたんでしょ、今夜どう?」
「まだそんな気になれないわよ」
「じゃあさ、めっちゃかわいいネコちゃんいるんだけど、3Pしない?」
「あたし3P嫌いなのっ!知ってるでしょ」
「見たら気が変わるって!ほら、あの子」
弘海を誘った男が親指で示した先には、無理矢理酒を飲まされて泥酔している、若い「ネコ」がくったりとソファにしなだれかかっていた。顔はよく見えないが、線の細い、今時の若者、といった風情だった。
「かわいいでしょ?どう?」
「・・・・・・・飲ませすぎよ。あんなになってたら楽しくないわよ」
弘海はそう言って、しつこい誘いを手で払った。舌打ちしながら男は離れて、「かわいいネコ」のところに戻っていった。ソファにしなだれかかった「ネコ」に、二人の男がまとわりついている。弘海はカウンターに戻り、小声で理玖に尋ねた。
「ねえママ、あれなに?最近よく聞くけど」
「あの子ね・・・・・・・常連さんがどっかで引っかけてきたらしいんだけど、なんだか神懸かってるらしいわよ」
「神懸かってるって・・・・・・・何が?」
「あの子と一回ヤっちゃったら、ほかの男じゃもう満足出来ないとかなんとか」
「はあ?」
弘海は顔だけ振り向いて、その神懸かったといわれる「ネコ」を見た。男たちに囲まれて、引き続き酒を飲まされている。一人が彼の顔を持ち上げて、キスをした。拒みもせず、舌を入れられても反応が薄い。
弘海は、その表情に息を飲んだ。焦点の合わない瞳は、感情がまったく読みとれない。話しかけられた時だけ見せる愛想笑いは薄っぺらく、誰に身体を触られても、嫌がる素振りも見せない。見るからに尻軽そうな雰囲気なのに、その顔はあきれるほどに整っていて上品だった。仕事帰りのビジネスマンなのか、スーツ姿でネクタイが緩んでいて、開いたワイシャツの襟元に、さっき弘海を誘ってきた男が顔を埋めている。男たちはもう30分もすれば「ネコ」を連れて、ホテルにしけこむのだろうと思われた。
「変な子・・・・・・・」
「ネコ」青年から感じる違和感に、弘海は無意識のうちに呟いていた。
その数時間後。
「お先にー」
弘海が明かりの消えた「Lick」を出たのは、午前4:00。大きな欠伸をしながら外に出ると、もう空が白んできていた。店の裏に回りこみ、一服しようと煙草に火をつけた。壁に寄りかかろうとして、足に何かが当たる。下を向くとそれはビジネスマンが持っている、よくある黒のブリーフケースだった。
「あらら・・・・・・・ぐちゃぐちゃになっちゃって」
昨晩の雨で泥まみれになっていた。親指と中指で持ち手を持ちあげると、ずっしりと重い。「Lick」の客のものか。
どうするか悩んで、手を離そうと思ったその瞬間、その声は聞こえた。
「それ・・・・・・・俺の」
少し離れたところから、弘海の手元を指さして立っていたのは、あの「神懸かったネコ」青年だった。着崩れたスーツがさっきよりもさらにすさんで見える。
「あんた・・・・・・・さっきの」
確か二時間前くらいに例の男たちと店を出て行ったはずだった。何で鞄だけここに残されていたのか。弘海が口を開こうとしたのと、うぐっという、この界隈では聞き慣れたうめき声が聞こえたのが同時だった。
「ネコ」青年は、その場で盛大に嘔吐した。
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