故郷おやき

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 錆びた古い鉄骨の外階段を上り、コンクリートが剥き出しの廊下を歩く。紅い目の兎のチャームがついた鍵を鍵穴に挿し、左に回す。  何もない。テレビも炊飯器も冷蔵庫も。まっさらで空っぽで哀愁漂う。帰っても聞こえない『おかえり。』の声。香ってこない夕食の匂い。ここに帰るのが、たまに苦しい。  でも、ガスは使えるし水も出るし、ぎりぎり生活はできる。唯一カーテンは新しく買った。大好きなピンクのカーテンを選んだが、この部屋には似合わなかった。四畳半の畳部屋、くすんだ壁についた大きなシミが不気味だ。  須藤真奈美、十八歳。この春、長野から上京してきた。  地元は大好きだった。日本アルプスに囲まれたこの地域は、広大でどこまでも続いているように思える。ぽつぽつ並ぶ古民家には優しいばーちゃん、じーちゃん達が茶を飲んで暮らす。  かーちゃんがよく買ってくる『あおづ堂』のおやきは小さい頃からの思い出の味。もちもちの生地の中にギッシリと詰まった野沢菜が一口食べると溢れそうになる。この素朴な味わいが私の故郷の味だ。  「私、東京の大学行く!」  「あんた、急にどうしただ?」  「東京すごいんだに。テレビで見た。」  「まあ、よからず。みやましくなってきな。」  高校三年生の春、東京に行くことを決めた。かーちゃんも一切止めなかった。上京する理由すら、特になかった。ただ、ドラマで見たようなキラキラな服を着た、都会の女の子になりたかった。  そして、高校の卒業式の次の日にすぐに上京した。東京の大学の看護学科に進学し、晴れて都会の女子大生となった。  ただ、お金がない。  小さい頃から貯金していたお年玉とお小遣い。全部かき集めて三十万円弱を握りしめて東京に向かった。  これだけあれば、しっかり生活できると思っていた。だが、私の考えはやっぱり甘かった。長野から東京の交通費、家賃五万のボロアパートの初期費用、生活費用でもう二万円しか残ってなかった。これじゃあもう大学までの交通費と食費で消えてしまう。職もないから稼ぐあてもない。  バイトしなくちゃ。これじゃあせっかく東京に来たのに、渋谷とか新宿で遊べない。キラキラな服も買えない。  入学式から二週間が経ち、少しずつ慣れてきた大学に向かう。落ちてきた桜の代わりに、満開に咲くハナミズキが心を染める。桜よりも濃いこのピンクが私を故郷へと連れて行ってくれそうだ。ああ、なんだかもう長野が恋しい。  「真奈美おはよう!」  「あーおはよう、実佳!」  ミルクベージュの髪をゆるく巻き、大きな瞳に長い睫毛、キュッと上がった口角とスッと筋の通った鼻。短い薄ピンクのタイトスカートに両肩が開いて、胸の形がはっきりとわかるピチッとした黒のトップスを着ている。高そうなブランドの革バックを左手に持ったこの彼女は、私が東京に来て初めてできた友達、原田実佳だ。  「あれ、そのスカート昨日と同じやつじゃん!」  「あ、ああ、、、。上を変えればバレないと思ったんだけどなぁ、、、。」  「真奈美それじゃあダメだよ!せっかくの華の女子大生。無駄にしてるよ?」  「でも、上京して一人暮らしでお金なくてさ。」  「ねえ、私がどうやって稼いでるか教えてあげよっか。」  そう言って、実佳は高校卒業後にすぐキャバクラで働いている話をした。新宿の歌舞伎町ってネオン街の奥深くにあるらしい。歌舞伎町は、闇のお金と暴力がいっぱい出てくるって映画で見たし、怖いイメージしかない。実佳はそんなところで働いているのか、、、。未成年の実佳には、ボーイと呼ばれる男性スタッフがちょこまかしてソフトドリンクを用意してくれるらしい。でも、客が脚を触ってくるとか手を握ってくるとか聞いただけで気持ちが悪い。私にはできそうにもない。  働かなくちゃ。どうやってお金を手に入れる?長野では、腰の悪くなったじーちゃんの代わりに畑を耕した。そしたら、じーちゃんが古着を一着、買えるくらいのお小遣いをくれた。  「もし、本当に困ったら、私の働いてるキャバクラ紹介するから!」  授業に向かう別れ際、実佳は親切にそう伝えてくれた。全く気が進まないが『ありがとう。』と一言添えて、笑顔で手を振った。  授業が終わって、帰路につく。今日は朝から夕まで詰めっ詰めに授業がある日で疲れた。ハナミズキを眺めながら、一つため息をつく。  ふと、白地の外観に縦長の小窓が数個ついた、右上がりに傾いた屋根が今どき風な家を工事しているおっちゃんが目に入った。  新しい家はこんなに綺麗なのか。輝いているのか。そしてこの家で、誰かの新しい生活、人生が始まるんだ。と思ったら、家を造るのって誰かの新しい生活を導くようで素敵だな。やってみたいかもとまで思った。  「お、おっちゃん!ここで働かせてくんな。」  自分でも驚いた。工事を見張ってる人に思わず声をかけてしまった。  「なんだなんだ、田舎っぺか?」  「長野から先月東京出てきただら。お金がねえだ。お願いします、働かせてくんな。」  「わかったよ。明日からまたこの時間に動きやすい服でここに来な。」  「ありがとうございます。」  話しかけたおっちゃんがこの現場の親方だったらしく、すぐに許可をしてくれた。明日から、この工事現場で働ける。ようやくお金が稼げる。  そして、それからここの建設業者に所属させてもらい、色んな現場を建てた。東京の外れの古屋敷、渋谷の高層ビル。足場を組み、高いところへ上り、重たい機械を回した。学校終わりの放課後から、四時間だけ働いて、日給五千円。毎回日払いで貰えたから助かった。  土日は、朝から夕まで働いた。一日中働いた日は日払いで一万円貰える。そんな日は、小さなご褒美で甘いアイスを買って帰った。  力仕事、男だらけの現場。直射日光に、気まぐれに吹く風。畑で慣れたはずの外作業だが、それよりもずっとずっと大変だった。高いところが怖い。慣れない機械の扱いが怖い。一つ一つの鉄パイプが重たい。  学業は授業数も課題も多い。必死に、必死に仕事と両立して、合計で月に十万ちょっと。それが稼げる限界だ。  家賃で五万、光熱費で一万、食費で一万、月の定期券で一万、生活費や雑費で一万。これで全部で九万。  残りの一万とちょっとでブランドのスカートを買った。黒地にいちご柄のレースがついた、フリフリのスカート。こういうのを着てみたかった。八本セットで百円のハンガーにそっと掛け、しばらく眺めた。  都会に似つく女の子になりたい。服やネイルや化粧品にお金を使いたい。だから食事を安く、安く抑えた。  スーパーで一袋二十六円のもやしを買う。二食分にして半分ずつ炒めた。塩胡椒や焼肉のタレ、ポン酢など日によって味付けを変えたら何日でも食べられる。  たまに袋ラーメンも食べる。これも袋の中で半分に割って二食分。ガスが勿体無いから、半分の茹で時間で食べた。そのラーメンにもやしをトッピングした日は、贅沢で背徳感さえ感じる。  私の細い身体は、これくらいの食事でも満たされた。いや、満たされると言い聞かせた。  節約したお金で初めてネイルサロンに行った。爪周りに並ぶパールストーン、親指の大きなハートのストーン、いちご柄のアート、全体がピンクのラメのぷっくりした爪にうっとりした。  両指を曲げ、猫の手にしてじーっと眺めてはウキウキした気持ちになる。ネイルってすごい。  見た目は、あの頃憧れてたようにどんどん垢抜けていく、可愛くなっていく。なのに、なんでだろう。それでも心はどんどんすり減っていく。  雨が多くなり湿気が鬱陶しい。太陽が見えない日は私の心も晴れない。そんな六月のある日、実家から仕送りが届いた。  なんだろう、、、。  きっちりとガムテープで止められた段ボール箱にボールペンを刺し、手前にビーッと引く。ガガガッと音を立て、開いた中身は『あおづ堂』のおやきだった。  腹の減った私は、すぐにお湯を沸かし、ボールに入れて、湯煎でゆっくりゆっくり温める。そして、いつもはやらない一工夫。フライパンに油を少しだけ敷き、両面に焦げ目がつくように焼いた。  やっとホクホクに、そして焼いて表面の皮がカリッとなったおやきを大きく一口頬張る。いつもの野沢菜がシャキシャキと音を鳴らす。口に広がる、あの素朴な味わいに思わず涙が溢れた。  もう一つ、りんごのおやきをデザートに食べた。砂糖で煮たりんごの甘さと、アクセントのシナモンが食べ慣れたおやきの味とは違って新しい。煮たりんごもまた、もちもちの生地とよく合う。  一箱六個入りのおやき。大好きないつもの野沢菜が二箱、あとりんごと切り干し大根が一箱ずつ。大事に、大事に食べよう。  おやきの一番下にかーちゃんからの短いメモのような手紙が入っていた。  『身体には気をつけなんよ。    おやき食うて、ずくだして頑張れ!』   このたった二行の文で、応援してくれるかーちゃんの存在を大きく感じた。強くなった気がした。もう少し、食にお金をかけよう。痩せて帰ったらかーちゃんが心配するからね。  上京したばっかりの、看護学科、大学一年生。私は、可愛くなりたくて東京に来た。でも東京は、冷たい。弱くて力も財力もない私には、まだ険しい街だと思った。だからこそこれからは、一生懸命勉強して、精一杯仕事して、美味しいご飯を食べよう。  そして、卒業したら、絶対に看護師になってやる。たくさんの人を助ける。そして稼いでやる。一人前の立派な大人になってやる。かーちゃんに東京土産を買ってあげる。  そう誓って、今日も足場を組んだ。
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