プラネタリウム

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 雨戸がガタガタと風に揺さぶられて音を立てる。雨が降るんじゃないかしら、とママが無表情にレタスをむしっている。猫のマーチはいつまでも慣れない風音にビクビクして落ち着かなさそうに、ぐるぐると床を歩いていた。  ピンポーン  こんな時間に誰かしらねぇ、とママはモニターに、手を拭きながら走っていった。またAmazonでなにか買ったのを忘れてるんじゃないの、と思いながら猫の脇の下に両手を差し入れて抱き上げる。猫は少しの間、不安定になった足元を嫌がって暴れた。お尻をなぞるようにすっと手を回すと、ずしっとした重みとともに猫の微熱のような体温が肌に伝わる。思わず頬ずりしたくなって、この子がけむくじゃらなことを思い出してやめた。  ちょっと、響子、とママに呼ばれて猫を下ろすと明らかにママは焦っていた。「ちょっと待っててちょうだいね」と作り声でインターフォンに向かって話すと「はい」というくぐもった男の人の返事が聞こえて一旦、プツッと音声は途絶えた。 「誰なの?」 「知らないわよ。あんたのクラスの『北原くん』だって。知ってる?」 「うん、話したことほとんどないけど。……北原くん!?」 「ズル休みなんかするからよ。なんだか渡したいものがあるって言ってたわよ。お家、近いの? 悪いじゃない」  北原くんは同じクラスで、中学は違ったけど最寄り駅が一緒だった。すごくよく喋るタイプ、というわけではないけどいわゆる協調性のある人なので男子にも女子にも同じくらい人気がある。そして、不幸だなぁと思ったのは文化祭実行委員になってしまったことだ。クラス代表になるなんて、わたしならめんどくさくてお断りだ。 「お待たせしました」  なんと言ったらいいのかわからず、間の抜けたことを言ってドアを開けた。リビングのドアから玄関に出ようとするマーチの首輪の鈴がチリンと鳴る。 「突然ごめん」 「ううん。よく家、わかったね」 「斉藤が教えてくれたんだ」  ああ、斉藤……。幼稚園からの腐れ縁で高校まで一緒だ。けどだからと言って特にいまでは付き合いはない。わたしの家を知ってるなんてよくペラペラと喋ったものだ。 「あのさ、これ。明日は来てくれるかな?」  なにかビニール袋に入ったものを渡される。ガサッと音を立ててわたしの手にそれはぶら下がった。 「クラスTシャツなんだ。ちょっと手違いがあって、業者から届いたのが今日になっちゃったんだ。明日、渡してもよかったんだけど、みんな、朝から着てくるって盛り上がってたからさ。勝手に押しかけてごめん」  急にその包みが重さを増す。北原くんのしたことをお節介だとは思わなかったから、小さく首を横に振った。それはTシャツ係の子と違う子たちの間で揉めにもめてデザインの決まったシャツだった。結局どのデザインに決まったのか、わたしは知らなかった。 「わざわざこんなところまで届けてくれてありがとう」 「いいんだよ、俺、一応実行委員だからさ。これくらいしかできることないし」  そんなことないよ、という言葉は声に出なかった。北原くんは真面目なのでみんなの意見の妥協点を見つけようと必死になってがんばってきたし。もちろんみんな好き勝手に無責任なことを言うんだから妥協点なんて見つかるはずがないのに、それでも一生懸命だった。そうしてわたしは彼が必死に意見をまとめている時、窓の外の焼けるような日差しの下の中庭の噴水を眺めていた。水の吹き出さない、すっかりさびれた噴水。 「……今日、休んじゃってごめん。大変だったでしょう? こんなに遅くなったのも作業が遅れたからじゃない?」 「新井さんはそんなこと気にしなくていいよ。昨日までずっとがんばってくれてたのは新井さんでしょう? だから今日、無事に完成したんだよ。新井さんががんばってくれて、すごく感謝してる。みんなも新井さんがいなくてどうしたらいいのかわからないって、あちこちで騒いでたよ。……昨日まで手伝わなかったのに虫が良すぎるよな」  最後の言葉は聞こえるか聞こえないかという声だった。わたしは驚いてうつむいていた顔を上げて彼の顔を見上げた。彼は少し恥ずかしそうに、そしてバツの悪そうな顔をした。 「新井さんがすごくがんばってくれて、みんなが手際よく準備ができてるの、知ってたんだ。だから安心しちゃって。そうだよな、ひとりで背負ってたら疲れちゃうよ、当たり前だよ。気づかなくてごめん。俺が委員なのにサボってた。ごめん」  二度目の「ごめん」の時、深々と頭を下げられてなんとも言えない気持ちになった。違う、北原くんは悪くない。北原くんは自分の仕事を一生懸命にやってた。わたしが学校を休んだのはそんなことじゃなくて――。  響子、上がってもらいなさいよ。ママが夜なのにわざとらしく大きな声を出す。北原くんも焦った顔をして、わたしの方を見る。わたしは急いでリビングに行ってTシャツを置くと、ママに「途中まで送ってくる」と告げた。「彼氏なの?」とお決まりのセリフが聞こえたけど「なわけないじゃん」と短く答えて玄関に走った。マーチがわたしの足元を走って、するりとドアから外に出ようとした。 「わ!」 「ごめん、猫ダメだった?」 「いや、びっくりした」  外に出る時に持ち出した軽い上着を羽織って、一緒に歩き出した。北原くんは断ってきたけれど、近くのコンビニまで送ることにした。彼はさっきまでと違って、急にあまり喋らなくなった。そしてコンビニの前まで来ると、立ち止まってわたしを真っ直ぐに見た。 「あのさ、あれはもう新井さんのプラネタリウムだって言ってもいいと思うんだ。作り方を調べてきたのも、みんなに教えたのも、一番作業したのも新井さんだし」 「そんなことないよ。あんなに大きなもの、ひとりで作れるわけないじゃん」 「早く見せたい。すごくキレイにできたんだよ。とても素人が作ったと思えないくらい。あれがキレイなのは全部、新井さんのお陰」  早口で熱弁をふるう彼に押される。確かにがんばったんだ。だってキレイなものを作りたかったから。小さい頃から星が好きで、プラネタリウムによく連れて行ってもらった。その時の気持ちがふわっとよみがえってきて、つい、熱くなりすぎてしまったんだ。周りとの温度差を生むほどに。 「北原くん、今日はありがとう。明日はちゃんと行くよ。当番もあるしね」 「当番なんて気にしなくていいからプラネタリウムを見に来て」 「うん、そうだね、うん……。本当は」  本当は? 口が滑ったというのはこういうことなのか。それとも誰かに知ってほしかったのか。北原くんならうってつけだと思ったのか。なにも知らないひとたちがまばらにコンビニに入っていく。その度に店内の騒がしさが外に漏れる。 「本当は、聞いちゃったの。作業をしてる時、きっとわたしが近くにいないと思ったんだよね。だから言ったんだと思うんだけど『ひとりでやったつもりになって』って何人かの子たちが笑いながら話してるの聞いて、ちょっと辛くなっちゃって。今日は大事な準備の最終日なのにサボっちゃって、本当にごめんなさい。北原くんの足、引っ張っちゃった」  北原くんは呆然とわたしを見た。そんな話を聞かされるとは思わなかったんだろう。それとも女子同士の摩擦に驚いたのか。わたしがそんなことを言う人間だと思わなかったのか。 「新井さんがいてくれたから、俺も最後までがんばろうってずっと思えたんだよ。本当は委員なんて嫌だったし、押し付けられたってすごく思った。でも、新井さんがキレイなものを作ろうとしてるの見てたら自分が恥ずかしくて、絶対いいものを作れるよう、クラスをまとめるのが俺の仕事だって腹を括ったんだ。そういう気持ちにしてくれてありがとう。文化祭が終わったら言うつもりだったけど、俺ががんばったのは新井さんのためだから。クラスのためなんかじゃないから」  ――それって?  じゃあ、と彼は一言いうと走り出して行った。歩行者信号が変わりそうになって、あっ、と思う。無事に渡り終えると彼は振り返って軽く手を上げた。わたしも応えるように手を上げたけど、それが彼から見えたかはわからなかった。  街灯の光が空まで白く照らす。わたしはじっと目を凝らす。頭の上にはいつでも空がある。細い月が頼りなさげに浮かんで、慣れた目に幾つかの星が見えてくる。  明日の星空を、私はどんな気持ちで見るんだろう? (了)
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