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ささやかな幸せ
改札を出て自宅までの道すがら、羽月は夕飯を買うためにコンビニへ立ち寄った。日課である。独身で人付き合いもほとんどない羽月は、普段の夕飯はコンビニ弁当で済ませている。
スーツのポケットに手を入れ、うつむきながら自動ドアをくぐる様は、傍から見ればくたびれたサラリーマンに見えることだろう。しかし羽月自身は自分の境遇を嘆いてはいないし、今の生活に満更でもない。ただ単に不愛想なだけである。
今日は野菜が程よく入っている弁当を選び、それからビールを一缶手に取った。彼の一日の終わりの楽しみ方である。羽月はこの小さな贅沢だけで満足することができる。一般のサラリーマンは仕事終わりに居酒屋だなんだと立ち寄るのであろうが、羽月にとってそんな所は無縁であった。彼らに比べればなんとも経済的で、質素な暮らしぶりであろう。
もっとも羽月は貧しいわけではない。数年前まではこんな生活でなかったし、貯金もそれなりにある。しかしそんな好待遇を捨ててでも、彼は今の慎ましい生活を望んだのだった。
レジで精算していると、店員がバーコードを読み取りながらチラチラと羽月のほうを盗み見てきた。見かけない顔だったので新入りのバイトかと思い、羽月は顔を背けた。たまに見知らぬ人から声をかけられる羽月にとって、それは自然な動作だった。
羽月はある分野において著名で、一部の人たちにとってみれば雲の上の存在だった。しかしある時忽然と姿を消し、その後人知れずひっそりと今のような生活している。
「あの、もしかしてTAKAさんですか?」
商品を袋に詰めながら、店員は恐る恐る、しかし羨望の眼差しを羽月に向けてきた。懐かしい呼び名だが、羽月にとってはもはや煩わしいだけである。
「仕事しなよ」
羽月はぶっきらぼうにそういうと背を向けて自動ドアの方へと向かった。
「ま、待って」
店員はカウンターから飛びす勢いだったが、次のお客さんに応じなければならず、目だけをずっとこちらに向けていた。
せっかく家から近いコンビニだが、変えなきゃならない。羽月はそんなことを考えながら家路についた。
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