八月

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八月

 蝉の声がする。公園通りを涼しい場所を探して歩けば、機材なんて持ち込まれているわけはないのに、ライブ会場に居るような錯覚をしてしまいそうだ。予備校の夏期講習に通いながら、それがない日は図書館に通って勉強をしている。家でクーラーがあるのはリビングだけだ。夜寝るときは廊下のドアを開けることが許されているので、辛うじて冷房の施しを受けることができるが、昼間はそうはいかない。かといってリビングで勉強をできるほど僕は素直でも図太くもないのである。蝉の声がうるさい。暑さのせいで不快指数が上昇しているのか、心に余裕がなく、風情も何もあったものではない。蝉同士では求婚の渾身の歌唱だというから、美しい音楽にでも聴こえているのだろうか。あの学校祭のライブステージのように。 そんなことを考えて僕はハッと頭を現実に戻らせる。あれからどうも、何かにつけてあの日のことを思い出してしまう。全然関係のない蝉の声でさえも、今みたいに連想してしまうのだから、暑さにやられているようである。できるだけ木陰になっている場所を探して歩くと、カサリと足下で乾いた音がした。靴の裏を見ると蝉の抜け殻を踏んでしまっていた。木の側に行けば行くほど、転がった蝉の抜け殻は多くなる。これと同じ数だけの生きた蝉がいて、子孫を残す為にラブソングをがなりたてているのかと思うと、咎める気にもなれない気がしてくる。何より生きた蝉を踏んづけてしまわなくてよかった。でも靴裏を石畳に軽く擦りつけるように数歩進んで、気持ち靴の裏を綺麗にした。  模試の結果は第一志望はC判定だった。この時期でこれはなんとも言えない出来である。滑り止めが予想外にA判定だったから、浪人の心配はなさそうだけど、それでもやはり一番行きたい場所があって、そこに全く力が及ばないというわけでもない状態ならば、後で自分で自分を許せなくなりそうだから、もう少し頑張りたいと思った。それなのに、勉強中でも、予備校からの帰り道でも、食事の時に家族がかけてるテレビであっても、何かしら音の高低があって、それが何かの拍子に乗っているような、謂わばメロディと呼べるものを聴くたびに、僕の頭の中にはあの日の人の海に跳びこんだ自分の姿と、ポロンポロンと流れるように何かのワンフレーズを繰り返していたあの人の顔と手とギターと、その体を支えていた足先に至るまでを鮮明に思い浮かべてしまうという状態になっていた。もしやあの演奏には何かしらのバフ効果があって、状態異常にされてしまったのではないかと疑うくらい。  あの人は誰なのだろう。うちの学校の生徒ではない。制服でもクラスTシャツでもない私服だった。菅井に聞けば教えてもらえると思ったけれど、いきなりそんなことを聞くのは不審ではないかと思うと、とても聞くことはできなかったし、学校祭の次の日の終業式が終わったら、あっという間に夏休みに突入したので、彼と話す機会もそうそうなかった。連絡先は知っているけど、わざわざそこまでして尋ねるなんて、余計に怪しがられるのではないかと思うと僕はどうにも動くことができないでいた。それなのに、ふとした瞬間にあの光景は浮かんでくるのである。むしろ思い出すたびに美化されていっているのではないかと疑わしいくらいにハッキリと思い出すことができる。あの人の爪の藍色のマニュキュアの色まで。 そして繰り返すあのメロディ。曲名がわからないから、調べるわけにもいかず、名前がつけられないからか、余計に僕の中で強くその響きは根を張っていた。  扇風機の風を背中に浴びる度に、リビングのクーラーのおこぼれの冷気が背中に当たってありがたい。夜中の比較的静かな時間は暗記をするのに向いていると思う。イヤホン越しに自分だけに聞こえるわざとらしい発音も、単語帳のアルファベットの羅列も、その横のカラフルな意味や用例を描いたページも全部そのまま飲み込んでしまうことができるような気分になる。一つの単語にあまりにも多くの意味をもたせすぎた項目が出ると、一休みすることにしている。少し考え事を間に挟むと、それまでの単純作業のような暗記が、より焼き付けられる気がして。例えばなんでこの単語は4つも意味を付けられているのか、しかも似ても似つかない内容の言葉を。そんなことを気にして、スマホで検索したりして無駄な知識を増やしては、また先ほどやったページをちゃんと覚えているか確認し直す。そしてその度、大丈夫。僕はほんの少しでも進化している、と安心感を得られる。下らないかもしれないけど、自分で自分を褒めるのがみんなきっと足りないのだと思う。いや、それを言えば、僕だって例えば同級生の菅井なんかには、たまに眩しく見えるような感情を抱くことがあって、それは彼を自分と比較して、眩しいとか暗いとか感じているのだろうから、偉そうに言えたことではないけれど。でも彼より僕は成績はいい。僕の得意なことは勉強することだっただけだ。それがたとえ地味なもので、誰かに羨まれて自尊心を満たせるほどのものではないのだとしても、今の時点で自分が立っている場所で、自分ができることが何かわかっていることは、武器にしていいことなんじゃないだろうか。  最近はその「得意なはずのこと」の中にまで、あの日の光景とメロディがBGMのように潜り込んできて困っていたのだけれど、でもそれは不快な感覚ではなく、かといって受験生という立場では歓迎できるものでもなく、どうしたものかと偶に考える。よくわからないからきっといつまでも整理がつかないのだ。菅井に連絡して、あのバンドの…別に人の名前なんてどうだっていい。曲の名前を聞けばいいんじゃないか。僕が気にしているのは、あの荒れ狂う海のようになった体育館の熱情を引き起こした存在ではなく、その中の一人がなんとなしに爪弾いた一つのメロディなのだ。だから、曲名を聞けば、それをネットででも自分で聴くこともできる。そうしたら、きっとこのよくわからないリピートされる景色も、うまい具合にカテゴライズされて記憶のフォルダに振り分けられるだろう。そうなれば、僕を今、悩ます問題はなくなる。深夜のせいか、思いついてしまうと、ものすごい名案のように思えてしまって、止まらなくなってしまった。僕はそのままの勢いで菅井に連絡をした。 「遅くにごめん。学祭で菅井の次に演奏してた人達で、ギターの人が演奏の前に弾いてたメロディの曲名ってわかる?」 送信ボタンをタップしてすぐに「こんな夜中にすることじゃなかったかも」とテンションの低下を感じたが、返事がすぐに返ってきて、もう一度この不思議な情熱が再燃する。 「俺らの次のバンドのギターって渡部さんのこと?ごめん俺ら、その時撤収作業だったし、演奏の前の音までわかんねえわ。悪い」 そう言ってネコが号泣しながら頭を下げるスタンプが送られてきたので、「そっか、いきなりごめん。ありがとう」と一言メッセージと「気にするな…」と呟いて枯葉が飛んで行くスタンプを送っておいた。 さて、僕は今大きな過ちを犯してしまったようである。「渡部さん」。思いがけずどうやら僕は例の人の名前を知ってしまった。肝心の曲名は結局わからず、あのステージの上で一人僕の目に焼き付いたギタリストの名前。これは余計にこの悩みは明日からも深く僕の頭の中で繰り返し続くことになるだろう。それも今日までよりもやや強く。
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