十月

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十月

 10月も半ばに入れば、さすがに半袖では厳しい。ましてこんな夕刻から始まるイベントであれば、帰りは夜になるだろう。というか、こういう催しは一体何時くらいまでやるのがセオリーなのだろうか?菅井に聞いておけばよかった。チケットは当日買うものらしいから、イベントの詳細は全く分からない。知っているのは開場時間が18:00だということと、そのライブイベントに僕の心に絡みついたメロディの創造主である渡部さんとやらが出演しているということだけだ。  アーケード街に紛れるように、指定の会場は佇んでいた。時刻は17:35、少し早すぎたかと思ったけれど、結構な人数がガラス戸の前にたむろしているから、すぐに目処がついた。  けれど僕は自分でも少し意外になる。ここで行われるのが、単に音楽ライブだと知っていなければ、たぶんこの集団を見て僕は速やかに目を逸らして、視界から追い出してしまうだろう。目をつけられるのではないかとか、万が一顔見知りがいた時の対応が想像もできないからだとか、理由はいくつかあるけれど。でも間違いなく普段であれば僕は見て見ぬ振りする世界がそこに広がっていた。30分もすれば、何を隠そう、自分もその中の1人になるのである。こんなことを数ヶ月前までの僕は予想しただろうか。 「悪い。遅れたわ」 菅井が声をかけて来る。振り返れば初めて見る私服姿の同級生がいた。なんていうか、制服でもそこそこ決まっている人間というのは、私服でもそこそこ決まった人間になるのだなと突きつけられてしまったが、そんなことに一喜一憂していたら、この世では生きていけないだろうと、ただちに気を取り直す。 「いや、17:30に約束したけど、場所わかんなかった時の為だし、開場には全然間に合うから大丈夫」 ライブハウスなんて今まで一度も足を踏み入れたことのない僕にとっては、「はじめてのおつかい」と同じ心境である。何をすればいいか、明確な指示が貰えて、通行人に偽造したカメラマンたちに見守られているだけ、あちらの方が難易度は低いだろう。僕は17歳。今回のライブハウスが万が一テレビの企画になったとしたら「はじめてのおつかい」としては10年ほど遅い参戦となるが、ハードルはスーパーマーケットなどよりも数十倍は高く感じる。  そんな僕がしつこく「料金はいつ払うんだ?」「追加で何か取られたりするのか?」「誰を見にきたとか聞かれたらなんて答えればいい?」と矢継ぎ早にスマホで菅井に送りつけたら 「お前初めてって言ってたもんな。約束して一緒に行くか?」 という明朗な回答をくれたおかげで、今日の僕は「ダサくない格好」を模索してパーカーにチノパンという無難な結論に行き着いて、集合場所のアーケードの入口に立っていればよかっただけなので、ありがたい限りだ。  アーケード街の時計が18時を告げると同時に、ガラス戸が開かれてザワザワした集団がそのまま突っ込んでいく。 「スタンディング……立ち見なんだわ。ここ。早めに行った方が前に行けたりするけど、どうする?一応後ろの方にカウンターとかソファあったりして、疲れたら途中でも全然休めるから。様子見で中くらいで入るか?」 菅井の気遣いは何も分からない僕にはありがたいものだった。 「未知数過ぎて、どうしたいかも分からないんだ。中くらいに行こう。周りを観察しつつ、自分にとってベストな立ち位置を探すことにする」 「お前、時々変なこと言うよな」 ブハッと菅井に笑われてしまったが、偽りのない本音なのだから仕方ない。 「そろそろ最初の集団がはけたな。俺らも行くか」 菅井の後に続いて地下へと続く階段を降りる。外の道路はまだまだ熱気を放っていたのに、中に入ると急にヒンヤリとし始めた。壁には所狭しと何かのポスターが貼られている。乏しい明かりで目を細めて見てみると、全てイベントの告知のようだ。 「チケット代500円になりまーす」 Tシャツを着たお姉さんに声をかけられビクっとなる。 「あっ、すみません」 ポケットに握りしめて突っ込んでいた500円玉を渡す。生暖かいなとか思われていないだろうかと不安になるが、もう回収することはできない。 「はい、こちらチケットでーす。奥のカウンターで飲み物と交換してもらってくださいねー」 当然だがそんなこちらの不安には全く関係ない様子で、事務的ににこやかに案内された。入口のドアは映画館のドアみたいな重くてクッションがついたようなドアで、菅井は開けて待っていてくれた。  中に入ると初めてみる光景に僕は息をのむ。見たこともないくらい巨大なスピーカーがステージには並んでいたし、なんていうか、正直もっと不健全な場所を想定していたのだが、そんなことは全くなく、ただただ楽しむことを目的とした人たちで賑わっていた。菅井に連れられて、カウンターに行く。 「お前もジンジャーエールでいい?」 「えっ?酒?」 「何言ってんだお前。ジンジャーエールは酒じゃねえよ」 「えっ、じゃあ。うん、それで」 初めてのライブハウスは僕には目まぐるしかった。みんな平気でスマートにカウンターの人と談笑して、カップを受け取り立ち去っていくのを見てたりすると、なんだか帰りたくなるような気さえして来る。 「渡部さん、2番目だって」 「あっ……そう」 「なんだよ。気乗りしねえの?」 「いや……緊張してる」 「お前が出るわけじゃねえだろうが」 そう言って菅井にまた笑われてしまったが、だって本当に緊張しているのだから仕方ない。 「トップバッターはお前の知らん奴だし、椅子座ってろよ。俺もなるべく近くにいるけど、知り合い来たら挨拶しなきゃだし」 「あぁ……ありがとう」 「なんか面白えな、お前」 ニヤニヤ笑う菅井の言葉にムカつかないくらい、僕はここにいるんだかいないんだか、自分でも分からなかった。ちょっと慣れないことをするというか、悪いことをしてるような気さえしてきて、でも実際は何一つ悪いことなんかしていないんだからと理性に囁かれ、けれどやっぱり当初の目的を見失っていた。  菅井が誰かと挨拶したり雑談して、そして段々と会場がギュウギュウになっていくのを腰掛けてずっと見つめていた。そのうち、トップバッターのアーティストたちが出てきて、何か絶叫しながらギターを弾いているのだけど、それも申し訳ないくらいにほとんど入って来なかった。果たして今日ここに来たのは合っていたのだろうか?そんな考えが頭の中を巡り始め、帰ろうかな。と思いはじめる。でも帰らない。学校祭の時、ここで背を向けたから、あの人が生み出したメロディの最初を聞き流してしまった。次があるなら、一度に全部暗記してやるくらいの心持ちでいたから。  暗記なんてフレーズを思い出して、僕は自分が受験生だったことを思い出したが、それを忘れられるくらい、今日のためにここ数日は猛勉強したから大丈夫。と自分に言い聞かせた。地味だけど、僕の多少の特技。それがあるだけで、ここに座っている権利を守れるような気がした。  そうこうしているうちに、トップバッターたちは終わって頭を下げて引っ込んでいく。周りに合わせて拍手を送りながら、2番目が渡部さんだという菅井の言葉を思い出して、僕は椅子から立ち上がり、少しだけ人を掻き分けて前へ向かった。  後から潜り込んだし、学校祭の時のような勢いは持つ勇気がなかったから、会場の半分くらいの場所で僕は立っていた。菅井が横に来る。 「渡部さん出て来たぞ」 その声に合わせてステージの裾を見ると、あの日の人がギターを持って登ってくるところであった。綺麗だった。別に造詣は深くないけれど、例えるならきっと美術やアートなどに分類されるような。カッコよくて、綺麗。うん。うまく言えないけど、ずっと見ていられる気持ちになる。そういう種類の感情で胸が一杯になる。ステージの上はライトで明るすぎるくらいだ。こちらは暗いから、向こうからは何も見えないだろう。けれどそんなことは関係ない。あの人は自分が見られていることを知っている。多くの人に待ち望まれていることを知っている。それでもここに来るまでの僕のように臆することなどなく、この場所に立つことを選んでいる。そんな強さがそのまま輝いているように見えて、ずっと見ていたい気持ちになった。  その人はまた指を気ままにギターの上で踊らせた。この前のもきっとそうだったろうけど、これはあの人にとって簡単な準備運動みたいなものなのだろう。何かのメロディが流れる。残念ながら学校祭の時に聴いたものとは違っていた。なのに。また僕はやらかしてしまったらしい。受験生の貴重な脳内メモリーを使って、今日の旋律も全て記録してしまったのがわかった。  あの人の爪の先から、少し色褪せた茶髪の毛先まで。ちょっとぶかぶかした赤と黒のチェックのシャツも、そのインナーの英語が隙間から見えるシャツも。ダメージジーンズではなかったものが、いつしかダメージを受けたとしか思えない不自然なジーンズと、焦茶色の革靴風のブーツ。その何もかもを記録してしまっているのが自分で分かった。そしてこれを明日からきっと何度も何度も繰り返しリピートする。ああ、僕は一体何をやっているのだろうか。こんなことをしている場合では正直ないだろう。もう10月だ。受験生だ。センター試験まで3ヶ月である。でも今夜の僕は正常じゃなくなっていた。もう一度あの人のギターを聴いた瞬間から。何もかもあの人に支配されてしまったみたいな気分で、あの夏の学校祭の時と同じように、音の嵐に身を委ねていた。菅井が横でジャンプしながら手拍子を叩いているのを見ながら、普段であればアホじゃないかと思ってしまう、その動作を真似して、ひたすら自由になって、信仰の対象と化したあの人に祈りが届くように僕も雄叫びをあげていた。
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