十一月

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十一月

「オムライスにする。決めた?」 「あっ、じゃあ僕も同じので」  ファミリーレストランの店員はそれを聞くと、速やかに僕の手にあったメニューを回収して歩き去って行った。勿論、無言でそんなことをしたわけじゃなかったのだろうけど、今の僕にはありきたりな接客マニュアルに載せられた言葉なんて全く届きやしない。 「なんか急かしちゃったみたいになったね、ごめん」 「いえ、全然そんなことないです」 「そう? ならよかったけど」  向かいに座っているのは渡部さんだ。ずっと僕の心を絡めてやまなかったメロディの産みの親。ステージの上にいる時と違って、蛍光灯の下では少し小柄な普通の人だった。少し痛んだ金に染めた髪が、この人は生きた人間なのだと僕に認識させる。ファミレスとはいえ、こんな風に2人で食事をしているのは菅井の功績であった。 「なに、結局渡部さんのファンにしっかりなってたんじゃん。お前、教室にいる時と別人だったぜ。ほら、俺も挨拶行くから、話しに行こうよ」  十月のライブが終わってすぐに、テンションが絶頂まで上がりきっていた菅井に連れられて、楽屋から出てきた演者たちが、各々のファンと思しき人間たちと交流する波の中を掻き分け、渡部さんのバンドへとたどり着いた。 「渡部さん、お疲れ様でーす!」 そう言って片手を上げて挨拶する菅井に少し笑って片手を上げて返事をした渡部さんは、菅井の横にくっついてきた僕にすぐに気づいたようだった。 「菅井もありがとうね、来てくれて。横の人、誰?」 「俺の同級生で、軽音じゃなかったんっすけど、学祭で渡部さん出てくれてたじゃないですか? あの時から渡部さんのファンになったらしくて、連れてきました」 いきなりそんなことまで言い放つ菅井に僕は慌てたけれど、それを聞いた渡部さんは別に引いたりすることもなく、 「そっかぁ、ありがとうね。聴きに来てくれて。名前なんていうの?」 と穏やかな顔のままで僕に話しかけてくれた。 「三下です、三下登と言います。高校の後輩です。菅井が会わせてくれるって言うからついてきちゃったんですけど、ご迷惑だったらすみません」  その時の僕は緊張もしていたけど、菅井同様に生音を聴いた後の高揚感でフワフワしていたからか、緊張の割に淀みなく挨拶ができた方だと思う。 「高校の後輩、ね。軽音以外の子が来てくれたの初めてかも。ありがとう」 そう言って笑ったまま手を出してくるものだから、勢いでその手を握りしめてブンブン振って握手してしまった。 「いや、ほんと。こちらこそです。学祭で、渡部さん、最初に音出してたじゃないですか。なんか軽やかな感じで、今日もやってましたけど、演奏の前に。あの時のメロディが、頭からずっと離れなかったんです。ちょっとした時にもすぐに記憶の底から出てきて、本当にずっと長い間。だからすごく嬉しいです、お会いできて」 伝えたかったことが、こんなことだったか定かではないけれど、片言になりつつ僕はもう数ヶ月に及ぶ中毒と化した、学際で見た渡部さんの勇姿を讃えるつもりでそんな言葉を伝えた。すると渡部さんは少し困った顔になりながら 「学祭……演奏で弾いたのは覚えてるけど、演奏前のまで覚えてないなぁ。ごめんね、そっちは覚えててくれてるのに」 「そっかぁ、残念だったな。曲名とか分かればいいのにって言ってたんだけど。な? 三下」 菅井が本来の僕の目的を言語化してくれたおかげで、ここに来る建前は思い出せたけど、僕にとってはそんなことよりも今目の前で立っていて、僕と話をしている渡部さんの方が大事になっていた。 「あ、うん。それはもったいなかったけど、でも今日聴いたのもすごかったから、たぶん上書きされました。格好よかったです」 「ははっ、ありがとう」  この機会を逃さないようにと食い気味で熱意を伝えてしまうから、面倒くさいと思われてるかもしれないけど、次が再びあるかどうかもわからない細い繋がりでしかない僕と渡部さんを繋ぎとめるにはどうしたらいいか全く思いつかなかった。だからとにかく感想を伝えることしかできなくなっていたのだけど、そんな僕を見た菅井が 「渡部さん。こいつ音楽とか演ってるわけじゃないから、俺らが話すようなことは話さないっすけど、本気でノってましたよ。普段こいつのあんな姿見たことないですもん。渡部さん、学祭の時の三下が見たっていうやつも、いつか思い出すかもしれないし、連絡先でも交換したらどうっすか? せっかくですし。こいつ大学受験組だから、これからあんまり今日みたいに遊び出たりできないかもだから」 「そうなんだ。受験生なら十月も結構勝負時なんじゃないの? 貴重な時間を悪かったね。でも、せっかく会ったし、交換しとこうか、連絡先。思い出したら送るよ、さっきのも」 なんだかよくわからないが菅井のおかげと、僕の熱意の相乗効果で、数十分前まで神にまで見えていた人のスマホの連絡先を僕はあの日、手に入れてしまったのであった。  そして渡部さんからある日突然連絡が入ったのが十一月。 「学祭の時のはやっぱ思い出せないや、ごめんね。お詫びに今月バイト代入ったから、何か奢らせてよ」  そんなメッセージが来て、僕は自分でもわからないくらい舞い上がってしまって、予定も確認せず約束を取り付けたら、その日は模試の日であった。約束は夜だから問題ないが、全く集中できずに勉強を続ける日が続いた。 「受験生、どう? 自分が経験ないからわかんないんだけど」 「あー、ボチボチです。今日も模試だったんですけど」 「えっ、それって結構大事なんじゃないの? よかった? そんな日に誘っちゃって」 「夕方には終わるんで、大丈夫でしたよ」 「そっか、よかった。未来ある若者を邪魔したかと焦った」  正確には全然ボチボチとは言えないレベルでしか集中できてなくて、多分今までで1番やばい成績取るのは目に見えてるんですけど、何もかも今日のこの夕食に浮かれていた自分の問題なので、渡部さんはなにも問題ないです。という心の声をだいぶ省略して伝えてから、僕は渡部さんに逆に問いかける。 「それより、奢ってもらっちゃったりして、すみません」 「まだ奢ってないよ、料理すら来てないじゃん」 そう言って屈託なく笑う姿と、ステージの上の姿は同じ人物には見えなかったけれど、不思議と嫌な感情は全く覚えなかった。 「でもさぁ、なんかずっと頭の中に残ってたって言うでしょ? 学祭の時の適当に引いたリフが。それが何だったか思い出せなくて、悪いような気もしてたし、三下君って今まで出会ったことないタイプの人だったから、いろいろ話したらどんなだろうっていう、こっちの勝手な好奇心もあったから、本当に気にしないでいいよ」 「リフって何ですか?」 「あー、そっか。そうだよね。なんだろう、音楽用語なのかな、正しくはリフレインって言うらしいんだけど」 「『〜を控える』とかの英単語のリフレインですか?」 「ん? いや、多分それは違うわ。繰り返すフレーズみたいな意味なんだよね」 「へー、リフって言うんだ、あれ」 「いや、弾いたものの名前であって、曲名ではないんだよね。『メロディを弾く』の『メロディ』にあたる感じかな」 「あー、なんとなくわかります」 「よかった。ごめんね、説明下手で。でも凄いな、英単語のリフレインって、そんな全然違う意味なんだ。凄いよ、受験生。マジで」 嫌味ではない、素直な称賛の響きを持った言い回しでそんなことを言われると照れくさいものがある。 「いや、英語好きで、偶然知ってただけです。俺なんか全然ですよ、模試とか受けて、順位が出る度に思いますもん」 「そっか……でもさ、どっちがいいんだろうね。順位がはっきり出るのと、出ないのと」 「えっ?」 「いや、三下君はさ、そういう順位の世界で戦ってるわけでしょ? 受験生。でもこっちはさ、音楽って、別にプロでもなかったら順位なんてそうそう出されるもんじゃないし、でも無いってわけでもないんだよね。暗黙の了解で、みんなが互いの順位を知ってるけど、口には出さないみたいな」 「へぇ……」 ほんの少し遠い所を見つめるような仕草で、そんなことを言い始めたのを聞いて、ちょっと怖い世界かもしれないなと感じた。 「プロになれればさ、問答無用で色々数字ありきなんだろうけど。でもそこまでの土俵ですらない人間がたくさんいるんだよね。何を隠そう、自分も含めてなんだけど。だからちょっと考えちゃった。今自分がやってることが、三下君の模試みたいに順位とか偏差値にされたら、どんななのかなって」 「それは絶対上位の方に入るでしょう! 間違いなく」 「いやいやいや、ないない。上手い人なんて本当にたくさんいるから。こんなに上手いのに、なんで自分なんかより評価低いみたいな扱いされてるんだろう? って不思議なくらいな人もいるよ。そんなもん全部関係なしに、ただ好きだってだけで始めたことのはずなのに、そんなの考えるなんて邪心が入ってるかな」 笑いながら渡部さんが話しに一区切りつけたところで、オムライスが2つ運ばれてきた。 「おっ、来たね。食べよう、食べよう」 「そうですね。いただきます」 そう言って、家での習慣でスプーンを持った両手を合わせてオムライスに一礼してから食べ始めると渡部さんに笑われた。 「オムライスにお辞儀してる人、初めて見た」 「ちょっ、ちょっと。まあ、癖みたいなもんです。家でずっとやってるから、気にしないでください」 「いいね、そういうの。自分のしたいことを、したい通りにできるのは大事」 笑ったのは一瞬のことで、僕の焦り気味の言い訳に渡部さんは少し湿り気のある雰囲気で言葉を返した。顔を見ると、なんとも言えない表情を浮かべて僕のことを見ていた。 「食べよう。冷めちゃう」 そう言って再度笑って僕を促した時には、もう先ほど感じた湿り気なんて嘘だったんじゃないかってくらいだったのだけれど、あの湿った眼差しこそが、ステージの上のこの人に少し近いような気がして、僕は少し鳥肌がたった。  神と食べるオムライス、お味は覚えていない。会計の時にもう一度礼を言って、駅まで2人で並んで歩いた。もう夜風は涼しいを通り越して寒くなってきていた。それでもずっと楽しいと思えたのは、憧れの人と一緒にいられるからだったのだと思う。これがどういう種類の感情なのか、素直になれるほどの性格を僕はしていないので何も言及はしないけれども、僕は今日、僕も人並みに人間だったということを知ることができた。全部あの人のおかげだ。
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