カメリア

1/1
前へ
/3ページ
次へ

カメリア

「あのっ…」 そこで誰かに声をかけられる。振り返ると黒い髪が雨に濡れて漆黒になった背の高い男性が立っていた。シンプルなサマーセーターも黒。チノパンの色まで黒ときている。どれだけ黒が好きなのか。 私はそんなシニカルな感想と同じくらい、美青年だという称賛の感想も抱いた。肌の色が白く、目は細いが顔全体のバランスが完璧に整っているので、むしろ人形のように美しく見える。右の頬の中央、目の下にある泣き黒子まで、全てこの人を完璧な容姿に仕立てる為に存在しているみたいだ。年齢は20代半ばくらいだろうか。 「あのっ…カメリアです」 「えっ」 低い声だが威圧感は全くない。そして告げられる驚きの事実。少女なんかじゃなかったカメリア。 「ずっと…頭の中で色んな人達がいて…僕を助けてくれたり、罵ったりされることもあるんですけど…でも、その人たち以外のことで、処女作を書きました。自分でも、気味が悪いことをしてるんだろうなって自覚はあります。不快だったら、すぐ捨ててください。あの…約束してくれたの本当に嬉しくて、待っていました。すみません。もう待ったりしません。もちろん付き纏ったりもしないので、心配しないでください。では…」 カメリアは矢継ぎ早にそう宣うと、私の手に紙の束を押し付けて早歩きで去っていってしまった。声も美青年だったな。なんて呑気に思いつつ、何を渡されたのか確認すると、それは市販の原稿用紙を10枚ほど束ねてホチキスで止めた装丁も何もない冊子であった。表紙の代わりか、1枚目の原稿用紙を二つ折りにして、その束を包んでいる。そこに書かれていたのは「カメリアのヴァージン」という細くて硬い、机の伝言板で見慣れたカメリアの字で書かれたカメリアの処女作のタイトルだった。 雨もまだ上がっていなかったことだし。言い訳がましく頭の中で述べてから私は渡された紙を読むことにした。作者はもう去って行ってしまったし、読まなければいけない義務なんてありはしないのだけれど。それだと口先だけのつもりであっても、「最初の読者になりたい」なんて約束をした自分にさえ愛想が尽きてしまいそうだったから。 話の中身はここ数週間の私とカメリアも体験に似ていた。というか、そのものであった。それがカメリアの側から見た勝手な私への願望や妄想が散りばめられていて、いくら真摯で清潔感のあった見たくれをしていたとはいえ、これをあの男性が書いたのだとしたら、若干気味の悪いものを感じた。 しかし、最後の数枚で話は急展開する。カメリアはある瞬間に気がつくのだ。私のことを何も知らないということに。分かっているのは文字と、僅かな文脈だけであって、あとは図書館の机に書かれた落書きに返事を考えるような人間だということだけで、他は何も知らないのである。 にも関わらず、カメリアは想像の中で私を「きっと一番の読者になってくれる」なんて思い込んで、私へと宛てる机のメッセージの一言一句を推敲していたり、私はその浅はかさと身勝手さに正直呆れてしまった。 物語の中では、最後にカメリアは今までの落書きも全て消しゴムで消して、私との繋がりを断つことを選んだ。図書館の机に、音を立てないよう涙を浮かべながら消しゴムをかけるカメリアの描写は、少しばかり胸を打つものがあった気がしないでもないが、それは私がこの物語のいわば当事者であることを加味すればこそ可能なことであって、まったく知らない人たちのストーリーとしてスマホで読み始めていたならば、何の興味も共感も覚えずに途中で読むのを辞めていた可能性も否めない。 カメリアの処女作は終わった。呆気ないものだ。正直、こんなものかと思ってしまった。そして、その瞬間に私は気づいたのだ。カメリアのことを何も知らない私に。 見た目と声と文字と、どんな文章を書くか。たったそれだけのことしか知らない人に、勝手に夢を見て、願望を抱き、その通りの結末が迎えられなかったことに拍子抜けして呆れている。カメリアの側から書かれた物語は、同時に私の側から書かれた物語でもあったのである。それに思い至った私は、カメリアを探してすっと立ち上がり周囲を見渡した。だが10分近く前に立ち去った男を見つけることはとうとう叶わなかった。 帰りの電車の中で、私は「カメリア」という言葉を検索してみた。もしかしたら、何処かに彼の書いたものが見つかるかもしれないと思って。私が十数分前に読んだものが処女作なのだから、その言葉に嘘がなければ書いたものが見つかる筈などないと検索ボタンを押してすぐ気づいたのだけれど。 代わりに出てきたのは単語の意味だった。花の名前だったのか、私はそれすら知らずにカメリアを知ったつもりになっていた。花言葉は色によって違うらしい。「控えめな素晴らしさ・気取らない優美」、「完全なる美」、「控え目な美」…色の関係なしに持つ意味合いは「控えめな優しさ・誇り」。 図書館で出会ったカメリアの濡れたような黒髪を思い出す。控え目で気取らなくも美しい黒い髪と、男にしては美しすぎた輝くような白い肌。あの髪の色はカメリアの全ての色を混ぜた色だったのだろうか。だから濡れたように見えたのだろうか。答えはわからないし、多分私は間違っている。 でも今となってはわかるのだ。あの机の伝言板も、市販の原稿用紙を束ねただけの小冊子の処女作も、そしてそれを書いた男の美貌も、何もかもがカメリアに相応しかったのだと。カメリアのヴァージンは私が奪ってしまった。それもたぶん最も乱暴な形で。もう一度時を戻せるなら、嘲笑も呆れも何もなく、丁寧に、この簡易な装丁の物語のページを私はめくるというのに。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加