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1週目
念の為に言っておくが、私は別にマメな性格というわけでもないし、普段も新聞なんて読まず、ニュースはスマホに流れてくるだけのものをありがたく拝借する人間である。そんな私がどうしてこんな図書館なんていう場所を訪れているというのか、それもこんな、傘がなければ濡れてしまうほどの雨の日だというのに。
きっかけはただ一つ。見たい雑誌のバックナンバーがあったから。職場のランチタイムで配られたお菓子が美味しすぎたのだ。配ってくれたのはお菓子作りが趣味だという先輩社員。
「こんな美味しいのどうやって作るんですか?」
お世辞ではなく、本気でこんな言葉を使う日が来るとは思わなかった。それを聞いた先輩は少し得意げに
「これね。先々週の雑誌の隅に載ってたのよ。ガレットブルトンヌって言うんだけど。初めてでも作りやすいアレンジだったわ」
なので私はその雑誌のバックナンバーを探すことにした。それ以上得意げになられるのが嫌で、その人に借りようとは思わなかった。
図書館なんて学生時代ですら縁がなかったから、さっぱり何もわからない。潔く私はエプロンをつけた職員に雑誌の名前とバックナンバーの有無を尋ねると、その職員は新聞が広げられた台の近くの棚に行って、数十秒で全てを解決してくれた。
借りることができると思っていたけど、雑誌は貸出対象外だと告げられた。図書館は本を無料で借りられる場所と認識していた私には、それは少し衝撃的な事実であったが、こんな規則を変えるために社会運動をしている時間もない。館内での読書は自由ということは、自習スペースに紛れてメモの一つや二つ取ったところで咎められないだろう。私は濡れた靴下が館内の冷房で冷えていくのを感じて、急いでこの用事を終わらせてしまおうと窓際の少しでも外の光を感じられる空席を探して歩き出した。
曇った、というか雨だったのに、窓から流れ込む光で一席だけ輝いて見える空席があった。少しテンションは下がっていたけれど、なんだか明るくなれるような輝きに魅かれ、私はその椅子に手をかけた。もっとも、図書館の庭の生垣の切れ目から光が差し込んでいるだけで、それが魔法でもなんでもないことは分かってはいたけれど。
書き写すという作業は、思いの外、労力を要するものである。硬くなった背筋と肩甲骨を伸ばして、やっと終わった作業から集中を外すと、ずっとそこにあっただろうに全く存在に気づかなかった机の落書きを見つけた。
「カメリア」小洒落たカタカナである。こういうセンス、私は嫌いじゃない。少し角張ったけれど、力み過ぎていないその文字には何故か強い好感を抱いた。
「素敵な字ですね。誰かのお名前ですか?」
シャープペンシルでサラリとその文字列の下に書き足してみる。返事なんてくるわけもないし、大方、清掃の担当者に見つかって消されてしまうだろう。でも少しだけワクワクするような気持ちでカメリアの字をもう一度見つめてから、私は帰る支度を始めた。
私としたことが、どうかしている。また今日も先週と同じような雨の中を図書館に来てしまうなんて。別に読みたい本もないし、雑誌から拝借したレシピは既に家で作って「私の方が上手いな、うん」と自己承認欲求に加えて美味しいものを食べたい欲求も満たすことができたのに。
ここまで来たからには認めなければならない。私は「カメリア」が気になっている。それが気になって仕事が手につかないなんてことはなかったけど、コーヒーの湯気が立ち上がるマグを見つめたり、デスクワークに疲れてせめてコンクリートとはいえジャングルを遠く見つめて眼を癒そうと窓の外に視線を向けてみたとき。あの背伸びした私の視界の片隅に飛び込んできた「カメリア」のレタリングが頭に何度か蘇っていた。
カメリアの返事は来ているだろうか。いいや、そんなもの来ているわけはない。多分とっくに図書館の職員の手であの落書きは消されてしまっている。それでも「もしかして?」という好奇心がもはや抑えきれなくなっていた。天の導きか、雨の日に図書館に足繁く通う物好きは単に少ないのか、先週と同じようにカメリアの机は光を浴びたまま空席で私を待っていた。
カムフラージュに本を手に取ることも忘れて、私は机に一直線に歩いた。そして机の表面に素早く眼を走らせる。そこには先週と全く同じ「カメリア」の文字、その下の私からのメッセージ。そして更に下に新たな1行が誕生していた。
「ペンネームです。」
と。
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