廃屋

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 屋根には何層にもつるが絡まって、まるで森が今にも屋敷を飲み込まんとしているようでした。  その横には百メートルはあろうかという高い崖がそびえていました(崖の下には綺麗な小川がせせらいでいます。きっと町の象徴である湖まで流れているのでしょう)  屋敷の前には古ぼけた茶色いたぬきの置物が飾ってありました(よく見る笠を被り、とっくりを持つたぬきです)  小学一年から二年にかけては、その屋敷には人を食う鬼が住んでいるという噂がありました。  なので私たちは屋敷を通り過ぎるときはいつも悲鳴を上げ、駆け足でした。友達が背中を押そうものなら、あまりの恐怖で真剣に怒って友達のランドセルを拳で叩いたものです。  三年生になってからは人食い鬼ではなく殺人鬼が住んでいることになりました。非現実的な化け物の存在を信じていることが恥ずかしくなったのでしょう。  でも四年生になってからは、私たちは幽霊に夢中になりました。  今は閉鎖されてしまった、個人で運営をしている心霊サイトに、私たちは見事に感化されました。安っぽい心霊写真を見てはコメント欄に「強い霊気を感じる」だの「この写真を撮った人は呪い殺されたらしい」だのデタラメと書き込んでは心霊研究家を気取ったものです(今となってはとてもお恥ずかしい。でもあの時は真剣に幽霊の存在を信じていたのです)  だから当然、オカルトマニアな私たちにとってあの屋敷は格好の心霊スポットでした。だから夏休み、深夜にあの屋敷に忍び込もうという計画をしました。  でも結局、その計画は頓挫してしまいました。母親に相談すると「あんたみたいな子供が深夜に出歩くなんてとんでもない」と叱られ、とうとう友人からの計画実行の連絡もないまま九月一日を迎えました。  新学期からは全くそういったオカルト話をすることはなくなりました。私たちの中の流行が夏休みを通じてすっかり冷めてしまったのです。  そして五年生になり、六年生になり、中学生になっても毎日通学路にその家は相変わらずつたまみれの屋根を構え、玄関にはたぬきの置物が出迎えていたというのに、私たちはあの屋敷の話をすることはなくなりました。あんなにそのしれぬ不気味さを放っていた廃屋は、ただのなんの変哲もない風景となっていったのです。  高校、大学と進学し、私は社会人となり実家を離れました。私は音楽家になることを夢見ていました。だから就職してから間もなくも音楽活動をしていましたが、徐々に仕事が忙しくなり、仕事をすることに疲れを感じ、音楽なんてどうでもよくなっていきました。毎日毎日12時間立ちっぱなしで小麦粉や惣菜の臭いで充満した工場内で、ベルトコンベアで流れてくるパンに具を乗せたり、ケチャップを塗ったりという作業は予想以上に疲れるものです。だから私は職に就いてから3年と経たずに体を壊しました。私は地元へ出戻ってしばらく休職をし、実家で療養生活を営むことになりました。  私は気晴らしに散歩をすることにしました。冷たくも優しい風が私の頰を撫で、草や土の表面にはうっすらと白い霜が乗っています。道の端にはくしゃくしゃに砕けた落ち葉が掃き溜められ、藤豆の鞘も散らばっています。都会の喧騒や焦燥にかまけて、自然を肌で感じることを忘れた私にとっては、何の変哲もないこの冬の事象がとても懐かしく思えました。なので私はふとあの廃屋のことを思い出しました。成長とは不思議なものです。小中と毎日歩いていたあの通学路はこんなにも小さく、狭いものだったのかと驚くばかりです。布団屋、テーラー、個人経営のコンビニ。右手には懐かしいお店が今でも並んでいました。ですが、どのお店も少しばかり薄汚く、そして寂しそうな佇まいに変わっていました。そうこうしているうちに、あの廃屋のある場所に着きました。そこにはただの平地がありました。あの異様な雰囲気を醸し出す廃屋はなく、たぬきの置物は姿を消していました。それどころかあの今にも動き出しそうにうねっている木々も、刈り取られてなくなっていました。そこにはただの平地が漠然と広がっていたのです。不思議と私は何とも思いませんでした。あの頃あんなにも夢中になった廃屋がなくなっていても、私の心は一つも揺れ動きませんでした。あの廃屋は私の夢だったようです。だから私がいつの間にか夢を見ることを止めたと同時に、廃屋もいつの間にか取り壊されていったのでしょう。私はまだ10分と歩いていませんが、体調も万全ではないし、日が落ち始めて寒さが増してきたので家に戻ることにしました。  そういえば母によると、うちの地元にもとうとうイオンが建ったそうで、なるほど、あの商店らで鳴いている閑古鳥はそれでかと私は少し納得しました。
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