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男は棺を引きずっていた。
壮麗たる大地一面に広がる背の低い草にはたっぷりと霜が覆いかぶさっており、歩くとサクサクと心地のいい音がする。遠くの黒い山々は白い雪化粧をほどこし、まだら模様に姿を変えている。雲は空という空を覆い隠し、その様子は今にも降り注ぎ地面を押しつぶしそうなほど重たく淀んでいた。男の長い旅路は、二度目の冬の到来を最後に、間もなく終わりを迎えようとしていた。
男の旅は棺とともにあった。川辺の砂利道に足元をすくわれながらも、狼や熊の出る森で息をこらしながらも、山賊に身ぐるみ剥がされてもなお、男は決して棺だけは手放さなかった。おかげで棺はすっかり雨風にさらされ、まるで長い間土の中に埋まっていたかのように朽ちている。
それと同じくらい男はボロボロであった。地を睨みつける顔は苦悶に満ちており、額からは季節外れの汗を垂れ流し、食いしばる歯の隙間からは情けない悲鳴が漏れ出ている。枝のように細った足はガクガクと震え、包帯を巻く手は棺にくくりつけた荒縄の摩擦によって血が滲んでおり、手足の指は黒く変色し、今にも腐り落ちそうなほどであった。
いよいよ男は体力の限界を超え、縄を手放し地面に膝をついて座り込んだ。全身の力は抜け、視界は黒く染まってゆき、聴覚は機能を失っていった。男は自分の死を確信し、遠のいていく意識の中で、旅の終結を成し遂げられなかった自分を咎め、悔やんだ。
ふと、水が入ったかのようにくぐもった男の耳に、かすかに打ち付ける波の音が聞こえた。男は驚き顔をあげると、目の前にはなだらかな丘があることを知った。男は自分の求めていた地が目と鼻の先であることを確信した。男の手足には再び力がみなぎり、今一度立ち上がると、しかと縄を握り、自分の重心などではなくはっきりとした足取りで歩み始めた。
やがて丘に差し掛かると、棺がとてつもない重みで男を後ろへ後ろへと引っ張った。どうということもない斜面すらも今の男にとっては、険しい山を登っているかのように錯覚した。男はやけくそに叫び、渾身の力で縄を引いた。
その途端、棺をくくっていた縄が鈍い音を立ててちぎれ、棺は丘の下へと真っ逆さまにずり落ちてゆき、男の体は斜面に打ち付けられた。男は苦痛に顔を歪ませ、うめき声をあげた。目の前はぐねぐねと歪み、耳はキィキィとした不快な音に支配された。だが、今度は男の執念が死に勝った。男は地面を這いながら丘を下り、腰を曲げながら短くなった縄を引っ張った。だが、棺はびくともしない。短くなったことで十分な力を発揮することができないのだ。男は縄を手放し棺の後ろに回ると、押し上げるようにして丘を登り始めた。
棺は岩のように重く感じた。男は口からギシギシと音を立てながら、途方もなく鈍重な速度で棺を丘の上へ上へと運んだ。そして何十分か、それとも何時間か、どちらにせよ呆れるほど長い時間をかけ、とうとう男は棺とともに丘の上に到達したのだった。
黒々とした大海が丘の向こうにあった。雲の隙間から伸び出た薄明光線が、紫色の薄暮を引き連れ遠く海に差し込んでいるその景色たるや、今にも神が舞い降りてきそうなほど荘厳であり、まさに亡き妻の門出にふさわしい絶景に違いなかった。
「死ぬときは、この丘で黄昏を望みながら死にたいわ」
十年前、初めてこの地を訪れた男の妻は、暮れゆく空を見つめながら言った。男はそのとき、本心などではなく、つい景色に気持ちが高ぶってポッと出ただけだろうと思っていた。そんな妻は二年前の冬の始まり、病に伏せた。男は九日もの間嘆き悲しみ続けた。そして十日目の朝、すっかり涙も枯れ果てた男は、妻の言っていたことを思い出した。男は意を決して妻の亡骸の入った棺を片手に旅立った。
その旅の目的はもちろん妻の夢を叶えることであった。だがそれと同時に妻との決別の意味合いも込めていた。妻の一切に執着するのを止め、記憶の中の妻との思い出だけを残し、あとは亡骸も遺品も、全てを海に投げ捨ててしまえば立ち直れるだろうと男は思った。
しかし男は立ち直る暇もなく、自分の死期も近いと悟っていた。だが今さら後戻りできやしない。男は最後の力を振り絞って縄を引き、妻の名前を叫びながら、棺もろとも竜の息吹のように猛り狂う荒波へと落ちていった。
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