ガラスの庭園にて

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 私のガラス温室の庭園に根を生やす植物の中で、ひときわ人々の目を引いていたのはきっとタビビトノキだろう。あの南米のカーニバルで踊り手が腰や頭につける羽飾りのような、やたら派手で堂々とした出で立ちの葉は庭園のシンボルのようなものだったのだが、近頃はどうも元気がない。あの木の威厳はどこへやら、すっかり赤バナナの木や、グズマニアやアンスリウムのような、絵具で塗ったような濃い発色の花々にお株を奪われてしまった。  そんな哀れな木の下に置かれた白いプラスチックの椅子とテーブルは、彼女の特等席だ。よく彼女は私の庭園に訪れ、離れの小屋に眠っている私の祖父が遺した、膨大な書物の数々をかたっぱしから引っ張り出し、テーブルに煙草と強い酒を置き、あのお決まりの定位置に日没まで入り浸っている。 「私も死んでみたい」  彼女は本を読みながら呟いた。これはよくある彼女の口癖のひとつである。 「また、突然何を言い出すんだ」 「トァン・マッカラルは生まれ変わり続けて、最後は人になって死んだ。なのに私にはいつまでたっても終わりがこない。私だってマスになって女に食われたもあるのに。ましてやタイの高僧だったこともあるのよ。ひょっとしてデーン人になったときに教会を襲って、司祭の口に溶かした金の十字架を注いだから天罰が下ったのかしら。地獄にしてはずいぶん退屈な地獄ね」  そして、馴染みのフレーズを吐いたあと、決まってこのように自分の置かれた境遇を呪うのだった。 「今度は何を読んだのだね」  私が尋ねると、彼女は一瞬こちらに表紙を見せ、またつまらなそうな顔で本を読み始めた。彼女が熱心に読んでいたのは、ショーペンハウアーの幸福論だった。ショーペンハウアーという名前と、彼が哲学者であるということは知っているが、その思想については全く知らない。 「どういった内容なんだ?」 「ショーペンハウアーが生を呪いながらも、人生に犬と戯れるという幸福を見出したのも、他のベンチャー起業家やエッセイストや、本業不明瞭のタレント崩れみたいのがくだらない自己啓発本で手放しに人生賛美するのも、その人生というものにかぎりがあるからに違いないわ。映像や写真の野営地で食事をする兵士たちが皆笑顔なのは、それが束の間の幸せだから。でも戦争が終わり、飽食の資本主義社会に慣れた彼らは、野営地で食べたような粗末な食事なんかに見向きもしないどころか、戦場で願ってもみなかったパイだステーキだワインだにも飽々している。あなたたちが出自の分からない「幸せというものは、終わりがあるから尊いものなのです」みたいな定型文に、決まってエモーショナルになるのは、それが終わりのあるあなたたちの共通的な人生観だからでしょう。私は本物の幸せというものを得るあなたたちが羨ましい」  案の定、返ってきた答えは簡潔なあらすじや書評ではなく、一方通行の長広舌だった。彼女に何かを尋ねても、質問の内容に則った答えが返ってくることはあまりない。代わりに返ってくるのは、精神疾患に神性を見出した少女のそれに似た、でもそれとは計り知れないほど深く明確な死、つまり永遠の無に対する渇望の冗長な吐露である。  彼女は本にしおりを挟むと、ほとんど消毒液のような蒸留酒を一口飲み、煙草に火をつけた。 「うーん、私は君が羨ましいけどなぁ」  私の言葉に、彼女は面白いようにピクリと反応した。 「鹿になって森を駆け、大空の支配者たる鷹として翼をはためかせ、クジラとなり海の底まで潜り、屈強な兵を率いる百人隊長や、大地をかけるモンゴルの遊牧民、勇猛果敢なイェニチェリ、自然とともに生きるインディアン、西欧化の波に最後まで抗った侍。君は色々な生涯を送った! 私にとってはすごく羨ましいことだ。中世シチリアの豪商にもなったことがあるらしいじゃないか。私は特にそれが羨ましい。その時代に生きた者の目で見るレモンは、ひときわ美しい輝きだっただろうなぁ。まあいいや、とにかく私は残りの人生をこの庭園の管理者として過ごすことしかできない。もっともっと世界中の植物や花々をこの目で見たかった。マダガスカルのバオバブ並木やソコトラ島の血を流す木を自分の目で見たかった! でもその夢はもうきっと叶わないだろう。それこそもう一度別の人生を歩まないかぎりはね」 「一度死ねば全てが終わるあなたたちに、私の気持ちなんて理解できないわ」  彼女は憤った様子で火をつけたばかりの煙草を灰皿に押しつけ、またうんざりするほど強烈な酒を呷った。 「もちろん理解できないさ。でも、それは君も一緒だ。君は求めている必ず死を迎える私たちの本物の幸福感とやらを理解できていない」  これは事実だ。少なくとも私は、私が何故幸福であるかと考えたことなどない。幸福を解析する行為は、心理学者か、幸福という状態に疑問を抱く哲学者が行えば十分だ。幸福を求める者が幸福感をバラバラに解剖したところで、そこに残るのはきっと虚無だ。だから私は哲学というものにあまり興味が湧かないのだ。 「帰る」  そういうと彼女は本を小脇に抱えると足早に庭園の出口へ向かっていった。 「ちょっと待ちたまえ」 「何?」  彼女はまだ怒っているような口調で背中越しにこちらに視線を向けた。 「君はシーシュポスの神話を知っているか」 「神の怒りを買って、永遠の徒労を繰り返す罰を受けた哀れな男」 「まぁそれはそうだが、私の言っているシーシュポスの神話はカミュの随筆のことだ。君は確かこの時代に生まれてきたのは初めてらしいじゃないか。おそらくあそこにカミュという男のエッセイ集があるはずだ。彼の言葉が悩める君を悩みから開放してくれるか、もっと別の悩みを君に押しつけてくることだろう」 「どっち」 「さぁ分からない。なんたって私は読んだことがないからね。子供の頃、祖父がよく読んでいたから、こっそり文字の羅列を眺めただけだ。もしかすると存分に悩み、苦しむことが君にとってのこの上ない幸福かもしれないよ」  彼女は返事をせず黙って前を向き直し、茂みへと姿を消した。それが彼女を見た最後の姿であった。  翌日、彼女は庭園に姿を見せなかった。その翌日も、その次の日も、そのまた次の日も彼女はやってこなかった。一日、二日ならよくあることだが、ここまで彼女がやってこないとさすがに気がかりだ。しかし探すあてもなく、私には木々の世話をしながら彼女を迎えることしかできない。  彼女が消息を絶ってから五日後、離れの小屋を訪れ、あの重厚な城壁のような本棚を確かめてみると、私の言ったカミュのエッセイ集は引き抜かれていた。下手な税理士より細かく、ばかに几帳面な祖父のことだ。祖父がすでにその本を捨てたとか、私の記憶違いで、そもそもそのような本を持っていないとかでない限り、不規則に適当な棚に放り込むとは思えない。それは彼女にも言えることだ。  彼女のいない庭園の外は冬を迎えた。萎れたタビビトノキはというと、すっかり活力を取り戻し、徐々に私の庭園の象徴としての地位を取り戻しつつある。
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