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「えっと……。なんで…その、なんだっけ。サブマリーナ? ってやつ買わなかったの?」
同期は、俺の話がまるで理解できないという表情で、眉間にシワを寄せる。
「『デイトナ』の方がその時人気だったから」
目をまんまるとさせ、その大きな目玉は今にもこぼれ落ちそうだ。
「いや、もう余計に意味わかんない。欲しかったのは、ジェームズボンドの方なんでしょ?」
「いや、意味はあるんだよ」
「はぁ? でも、そんな大層な時計つけてるの見たことないんだけど」
その視線は、俺の手首に巻かれた5000円の時計が独占している。
「いや、もう売ったからないよ」
「はぁ?」
同期は、水滴がいくらか飛んだほど、飲んでいたコーヒーを強めに置いた。
「『高い時計』ってやつを、買ってみたかったんだよ」
同期がコーヒーから手を離し、おもむろに椅子の背もたれに体重をかける。
「ないわー。……新入社員でよくそんなことできたわ」
俺は手首を眺める。
そこには、控えめながらも鎮座するしっくりと来る時計がある。
たしかに、俺のもとに『デイトナ』はもう存在しない。
俺はあの日、『高い時計を買う』という経験を買いに行ったのだ。
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