491人が本棚に入れています
本棚に追加
12 (圭人視点)
六月十三日、土曜日の昼過ぎ。
圭人は恋人の部屋に二人分の昼食を持参して訪ねた。一応インターホンを押してから、合鍵を使ってドアを開ける。
三和土には柾のスニーカーが一足だけ。初めて会ったときから履いているものだ。目を凝らさなくても、踵やつま先の部分に穴が空いているのが分かる。
――いい加減、買い替えればいいのに。
靴も買えないぐらい収入が少ないのだろうか。いや、そこまで酷くはないと思う。
柾はファッション全般に興味がないのだ。その代わり、仕事道具には拘る。愛用している一眼レフカメラはプロから絶大な評価を集めているライカだ。他に何台もデジタル一眼レフを持っているし、性能の良いフィルムスキャナーも部屋にある。
「柾?」
いつもなら、圭人が部屋に入ったら、すぐに玄関に飛んできてキスかハグをしてくれるのに、今日は来ない。部屋を見ても彼はいない。
「柾?」
もう一度、大きめの声で呼ぶと、ユニットバスの方から声がした。
「今、現像してるから、待ってて」
「分かった」
圭人は買ってきたスーパーの総菜を冷蔵庫に入れて、大人しく柾のベッドに座って待つことにした。
三十分後、柾が作業を終えてユニットバスから出てきた。
「待たせてごめん」
ようやく柾からのハグを受けて、圭人はお返しに、頬にキスをした。
柾から現像液の匂いがした。そして、やっぱり彼は黒いシャツを着ていた。現像をするときは、汚れても目立たない服を着るから。
このシャツは、柾の誕生日に圭人が贈ったものだった。ブランドものではないけれど、一万円はした。ヘビロテしてくれるのは嬉しいが、着すぎだと思う。すでに着潰している感がある。
この前の圭人の誕生日に柾がくれたのは、ブルーライトカットができるパソコンメガネだった。パソコンで目を酷使していだろうから、と。
嬉しかったけど、少しがっかりした。本人には絶対言えないが。
――転職する気はないのかな。
つい、そんなことを考えてしまう。
柾はαだ。卒業した高校は都内で有名な進学校だった。芸術系ではなく、就職に強い学部に行っていれば、今頃エリートになっていたかもしれない。
「ご飯食べようよ」
まだ触れ合いたそうにしている柾を振り切って、圭人は冷蔵庫から総菜三種と南高梅入りのおにぎりを二つ取り出した。
気持ちを切り替えたかった。今ちょっと、マイナス思考になってしまった。
「この前の月曜日、結城さんに会ったんだよ。ライブハウスで」
食事を始めてすぐに、柾が話を振ってくる。
「ライブハウス?」
「そう。渋谷の『爽音』って所でね。俺は仕事で行ったんだけど」
途中で話を切って、柾が油淋鶏を一つ、口に運んだ。圭人もつられて一つ食べる。スーパーの総菜だが、そこそこ美味しい。
「実紀、ライブ好きだって言ってたもんね」
渋谷のライブハウスだったら、そういう偶然も起こるだろう。
「いや、客として来てたんじゃないんだ。公演していたバンドの関係者として来てたんだよ」
「え?」
「どんな関係だと思う?」
柾が楽しそうに質問してくる。
「え――どんな関係って」
圭人は口を押えながら首を傾げた。
「そのバンドに曲を提供してたんだ。結城さんて作曲できるんだよ」
『インナーライト』って曲で、かなり人気が出てるんだ、凄いよな――。
柾にしては珍しく饒舌になっている。いつもはこんなにお喋りじゃないのに。
――実紀も、なんで俺に教えてくれなかったんだ。
ライブハウスで柾と会ったことも、作曲してバンドに提供していることも、実紀から聞いていなかった。音大を出ていることは教えてくれていたが。
「圭人も今度、ライブに行かない? 『トリガー』ってバンドなんだ」
――圭人「も」?
ちょっとした言葉尻が気になる。柾はまた、トリガーというバンドのライブに行くつもりなのだ。実紀が作曲しているから。圭人が行かないと言ったら一人ででも。
自分の知らないうちに、柾と実紀は打ち解けてしまったのかもしれない。
そこまで考えて、圭人は心の中だけでかぶりを振る。
――俺が二人を引き合わせたんだから。
これしきの事で嫉妬なんて、先が思いやられる。
――俺たちは運命の番なんだから。
もっとどんと構えていなければ。
「この油淋鶏、美味しいな。最後の一個、食べて良い?」
柾の能天気な質問に口が引き攣りそうになる。
圭人は頷いて、インスタントの味噌汁を手に取った。
噛み続けていた鶏肉は、味も柔らかさも失い、無味乾燥になっている。
最初のコメントを投稿しよう!