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2 (圭人視点)
発情期が始まってから、八日目の朝。
起床してすぐ、圭人は浴室に駆け込み、シャワーを浴びた。
熱い湯で全身を軽く流したあと、摩擦でぽってりと腫れた後孔に人差し指、中指、薬指を同時に入れ、内部で思い切り開く。すると、おびただしい量の精液が股を伝い下りた。だが、これだけでは足りない。だいぶ深い場所で柾に吐精された。
シャワーヘッドを外し、設定温度を低くしてから、湯を奥の方まで注入する。悪寒と吐き気に襲われるが、仕方ないと諦める。
中に出してもらうことによって、発情した体が一時的にでも収まるのだ。一時間も経たずにまた盛ってしまうけど。
だから二人は、ヒート時のセックスではスキンを使っていない。圭人は毎日、ピルを飲んでいる。飲み忘れさえしなければ、避妊率は百パーセントだ。オメガ専用の強力なピル。値も張るが、そこには惜しまずに金を出す。今の状況で妊娠なんて、絶対に許されない。
シャワーを浴び終えて部屋に戻ると、柾も起きていた。ベッドの上で体を起こし、伸びをしている。
おはよう、と声をかけられ、圭人も挨拶を返す。
「そろそろ帰るよ」
「もう?」
名残惜しそうな柾の声に、圭人は苦笑した。
「一週間分、仕事が溜まってる」
彼の傍に行き、形の良い鼻にチュッとキスをする。すぐに顔を離そうとしたが、柾に肩を引き寄せられた。すっぽりと彼の腕の中に収まってしまう。
「もう少しだけ一緒に」
笑いを含んだ美声に、圭人は吐息を漏らした。ずるいと思う。顔も声も自分の好みで――そんな男に甘えられたら、応えるしかなくなる。
「じゃあ、朝ごはん一緒に食べよう。作るから」
触れるだけのキスを三回してから、圭人はキッチンに向かう。
「簡単なものしか作れないよ。早く帰らなくちゃ」
壁時計を見ると、もう九時を過ぎている。
「いいよ、なんでも。圭人の料理なら」
甘い言葉に「はいはい」と答える。
圭人はスクランブルエッグとピザトーストを作り、二人分のコーヒーを淹れた。その間に、柾は浴室に行きシャワーを浴びていた。
二人で食卓に着いたとたん、柾が開口一番こういった。
「いちいち部屋の行き来するの面倒だよな」
その通りだと思うので、圭人は頷いた。
圭人の実家から柾のアパートまで、電車を使って三十分かかる。歩きを入れると四十分。毎日通えない距離ではないが、ヒート前後のときに移動するのは辛い。実際、前回のヒートでは危局に陥った。助けてくれる人がいなかったら、自分は見ず知らずのαに強姦されていたかもしれない。
ふと、正面にいる柾の顔を見た。彼は何か言おうと、口を開いているところだった。
圭人はピザトーストの耳を齧りながら、目で促した。
「やっぱり一緒に住もう――っていうか、結婚したい」
これが五回目の「結婚したい」、だ。何度言われても悪い気はしなかった。でも。
「ここに二人では住めないよ」
一言告げて、圭人は細く刻んだピーマンと溶けたチーズを一緒に咀嚼した。我ながら、自分の作ったピザトーストは美味いと思う。
「住めるだろ。ふつうにここに泊ってるんだから」
「俺の荷物を移したら足の踏み場もなくなるよ」
圭人は部屋の中を見回した。何度見ようが、狭いものは狭い。
仕切りのないキッチンスペース込みの八畳ワンルームは、ベッドとパソコンデスクと大きなチェストで占有され、床に座ってストレッチができる場所さえない。ここに越して来いなんて、無理な注文だった。
圭人が無言のままコーヒーを一口飲むと、柾が折れたように「引っ越すよ」と妥協案を口にする。
「いつ引っ越せる?」
「すぐには無理だけどさ」
そういったあと、柾はピザトーストを口に頬張って、モグモグと口を動かした。もうこの話題を続ける気がないのだろう。
すぐに引っ越せるわけがない。まず引っ越し資金がない。毎月、家賃と水道光熱費を払ったら、雀の涙ほどしか給料が残らないのだ。そんな状況でまとまった金が作れるわけがない。
――それで、結婚しようって?
入籍だけならタダできるが。その後の生活は? 子供は?
質問攻めにしたい衝動を、コーヒーを飲んで抑え込む。
――まだお互い若いし。
圭人は今年の三月に二十五になったばかりだ。柾はあと半年で二十六。結婚するにはまだ早い。
でも、結婚するならお互いしかいないと確信している。
「仕事はどう? うまくいってる?」
「まあまあかな。昨日は七万の仕事だったし」
柾が得意気に口角を上げた。
「すごいね」
柾は昨日、九時から十六時まで仕事だったはず。時給にすると一時間一万。
――毎日その仕事が入ればね。
そうはいかないから、恋人の仕事は厳しい。フリーのカメラマン。肩書は芸術的で華やかな印象だが、プライベートはいたって地味。柾は毎月、金のやりくりに苦労している。
圭人はため息を吐きそうになって、慌ててスクランブルエッグをフォークで掬って食べた。
「圭人のほうは? 仕事」
「俺もまあまあ、だよ」
圭人は在宅でプログラミングの仕事をしている。一年更新の契約社員だが、一部上場のソフトウェア会社に直接雇用されているので、柾よりは安定している。ただ、給料はさほど良くない。だから一人暮らしもせずに、実家に住んでいる。叔母に「早く条件の良いαと結婚しなさい」とネチネチ言われながらも。
柾が食事を終えて椅子から立ち上がった。食器を持たずに圭人の席に回り込み、後ろから抱きしめてきた。
「一応俺たち仕事してるし、二人ならなんとかなるだろ」
「それはそうだろうけど」
「早く俺だけの圭人にしたい。ちゃんと番になりたいんだ」
柾が圭人の首――否、項を覆うチョーカーをゆっくりと撫でてきた。
初めて発情期が訪れた十八の頃から、ずっと装着している革製の首輪だ。黒く分厚い生地でできたそれは、正気を失ったαの歯から逃れる唯一の貞操帯だ。
「俺だって早く番になりたいよ」
柾の手に己の手を重ね、圭人はため息交じりに囁いた。
しかし順序は守りたい。結婚してから番にならなくてはならないし、結婚するには叔母の許しが必要だ。必ず。
「柾」
圭人は首をひねり、恋人の顔を見上げた。
一目でαだと分かるような端正な顔だ。意志の強そうなくっきりとした眉と、黒目の大きい平行二重の双眸。いつも笑みを浮かべたような持ち上がった口角。余分な肉のない、引き締まった輪郭。
美人は三日で飽きる、なんて言葉があったりするが、圭人は柾と会うたびに見惚れてしまうし、この男と運命で引き寄せられた仲なのだと思うと、嬉しくて堪らなくなる。出会って二年が経つが、飽きることなど全くない。そしてこれからも、ずっと愛し続けられる自信がある。
――俺たちは、運命の番だ。
「圭人? どうかした?」
柾に頬を撫でられ、圭人は顔を横に振った。
「柾に今度、会わせたい人がいるんだ」
会わせても平気だ。自分たちの気持ちは揺るがない。決して。
――じゃあこの胸騒ぎは?
話を切り出した途端に早くなる、この鼓動は?
「会わせたい人? 圭人の叔母さんか?」
「違うよ。俺の友達」
予想外に沸き起こってくる不安を打ち消したくて、圭人は最近知り合った友人のことを、柾に話して聞かせるのだった。
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