3 (実紀視点)

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3 (実紀視点)

 腕時計を見やり、「お、六時ぴったり」と独り言を呟きながら、実紀(みのり)は『カフェ フラット』のドアを開けた。とたん、シナモンロールとコーヒー、ペペロンチーノの匂いが同時に漂ってくる。  腹減った。何か食べるものを頼もう。  顔なじみのウェイトレスがやってきて「お連れの方いらっしゃってますよ」と声をかけられる。「ありがと」と返事をして、実紀はいつもの席に向かった。ここで圭人と待ち合わせるのは今日で十五回目。自分も店員も慣れた感じだ。  ウェイトレスに誘導され、店内奥にある黒い丸テーブルの席まで歩いていくと、圭人と初見の男が、椅子から立ち上がるのが目に映る。  ウェイトレスに礼を言ってから、実紀は空席の前に立ち、まず圭人の顔を見た。 「圭人、納藤さんを連れてきてくれてありがとう。相変わらず美人だね」  茶化して言うと、圭人が「もう、何言って……」と苦笑した。  次いで、圭人の隣に立つ、やけに体格が良くて顔の良い――αらしいαの男に視線を向ける。彼は軽く目を細め、口角をぐっと上げて口を開けた。表情筋をちゃんと動かした、朗らかな笑顔だ。 「初めまして。納藤(のうとう)柾と言います」  臆することなく先に挨拶をしてくれる。社交的な人だ。 「初めまして、納藤さん。俺は結城(ゆうき)実紀と申します。よろしく」  実紀も笑顔を作って、軽く頷いた。  感じの良い人だと思った。事前に圭人から柾のことは聞いていた。αで自分と同じ二十五歳で、フリーのカメラマンなのだと。  ――αの割に気さくだ。  職業のせいだろうか。α特有のエリート然としたところがない。  三人は着席し、メニューを見ながら世間話をした。実紀の正面に圭人、右隣りに柾が座っている。 「俺はがっつり食べるよ。お腹すいてて」  実紀がメニューを捲りながら言うと、柾が顔を上げた。 「俺も食べようかな。おすすめは?」  そう聞かれると、ちょっと困る。この店の食事はどれも美味しい。今まで外れたことがなかった。 「ペペロンチーノとか」  さっき嗅いだ匂いを思い出して勧めてみる。 「じゃあそれにしようかな」  けっきょく三人ともペペロンチーノを頼んだ。 「この店、なんとなく居心地が良いね」  柾がリラックスした風に雑感を呟いた。お気に入りの店を褒めてくれるのは素直に嬉しい。  実紀もこの店の内観を気に入っている。解放感があるのだ。テーブルとテーブルの間隔は程よく距離が置かれている。無駄な壁がなく見通しと風通しが良いし、高い天井にはシーリングファンが設置され、洒落た雰囲気を醸し出している。 「そう? なら良かった。俺もこの店を知ったのはけっこう最近。二月だったな」  渋谷区のマンションに越してきたのは四か月前だ。ここを選んで良かったと思う。お気に入りの店がいくつかできたし、スーパー、病院、そしてライブハウスも徒歩十分圏内に点在している。 「俺たちが知り合ったのは三月だったよね。まだ寒かった。実紀もニット帽、被ってたね」  パスタのメニューページを開けたまま、圭人が明るい口調で言う。 「そうだったね」  実紀は相槌を打ち、自分の頭をさらりと撫でる。ざらざら。バリカンで今朝、刈ったばかりだ。 「ずいぶん思い切った髪型だね」  それ以外言う言葉がない、とでもいうように柾が肩を竦めた。 「寝ぐせの心配もないし、ドライヤーも必要ないし、洗うのも十秒かからないし。俺にはもってこいの髪型だよ」  他の髪型には戻れないかもしれない。 「実紀、そろそろ俺たちが出会った経緯を話してよ、柾に」  圭人がグラスの水を一口飲んで、いたずらっぽい笑みを浮かべた。  そうだった。今日三人で会うことになった目的。圭人と自分が出会って仲良くなったきっかけを、圭人の親友である柾に話して聞かせ、柾とも仲良くなること。  ――仲良くなれそう。  打ち解けたら仕事の話も聞いてみたい。プロのカメラマン。どういうことをするのだろう? 「俺たちが出会ったのは電車の中だったね」  実紀は微笑みながら、圭人と柾の顔を交互に眺めた。  一から十まで話したら長くなりそうだが。ペペロンチーノが来るまでには終わらせよう。
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