38(実紀視点)

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38(実紀視点)

 実紀は風呂場のドアの前で、柾がテキパキと現像の用意をし、暗室も作る様子を眺めていた。薬品のツンとした臭いもする。化学って感じだ。 「いいよ、入って」  渡されたゴーグルを装着して、実紀は風呂場に入った。ドアに取り付けているダークカーテンをしっかりと閉じる。  完全に真っ暗というわけではなかった。洗い場の床に、赤色の光を放つ四角い箱のようなものがある。 「なにこれ、レンジ?」  赤く染まった顔の柾に、ひそひそ声で聞く。 「なわけないだろ。セーフライトだよ。モノクロプリントをするときに使うんだ」 「モノクロ写真?」 「そうだよ。けっこう需要があるんだ。味のある写真ができる」  柾の声は楽しそうだ。現像の作業が好きなのだろう。  ユニットバスに蓋をした状態で、その上にバットやトングがいくつも、バケツも一つ置いてある。その中には液体が入っていた。 「何が入ってるの、バットの中」 「左から、現像液、停止液、定着液の順に置いてある――って意味わからないよな」 「はい。でも、テレビドラマとかで見たことある風景かも」 「はは、確かに。――露光は終わってるから、あとは液剤を印画紙に染み込ませるだけなんだ」  ――ロコウ? なにそれ。  分からない用語ばかり出てくるが、ゴーグルを着けている柾の顔はいつもより格好良い。  ラテックスの手袋を着けた手が、手慣れたようにトングで印画紙を挟んで、液剤に静かに浸す。けっこう長い時間、断続的にトングを揺らしている。 「何分揺らすの?」 「現像液は三分だ」 「ふーん」  地味な作業だけど、柾はイキイキとしている。本当に写真の仕事が好きなんだろうな、と感心する。  好きなことを仕事にする。これは非常に難しいことだ。  実紀だって、作曲の仕事がしたくて音大に入ったが、就職したのは楽器店だった。病気にならなければ、今でもそこで働いていたかもしれない。音楽は趣味で良い、と割り切って。  いつ仕事復帰ができるかわからなくて、手術後すぐに退職したが、全く未練はない。  稼ぎは少ないが、好きな事をしている今は、とてつもなく充実している。  タイマーの音がする。  柾が今度は停止液に、印画紙を入れる。 「これは三十秒」 「じゃあ数える」  一、二、三、とカウントを取る。途中から柾も数を数え始めた。なんだか嬉しくなる。  数え終わる前に、柾がセットしていたタイマーが鳴った。 「あ、ずれてたね」 「そんなもんだろ」  柾が次のバッドに紙を移す。 「写真、何枚あるの?」  一枚ならそう時間はかからないが、これが十枚、二十枚となると、かなり根気のいる作業だ。 「あ、もう飽きたんだろ?」 「あ、バレた?」 「お前が見たいって言ったんだろ。まあ、そうなると思って、六枚しか用意してないよ」  それなら良かった、とホッとした。  三十秒経つ。柾が印画紙を、水の張ったバケツに入れた。  実紀は途中から、黙って柾を観察していたが、最後の六枚目に取り掛かろうとしたときに、「俺にやらせて」と申し出た。 「やってみたい」 「実紀が? いいよ。失敗しても、やり直しがきくし」  その言葉で、気が楽になる。実はちょっと緊張していた。 「手袋してないから、溶剤が跳ねないように気を付けて」  優しい声だ。柾はいつだって優しいと思う。 「わかった」  実紀はまず、トングを持ってそっと印画紙を掴んだ。柾がやっていたように、現像液のバットに紙を入れる。 「揺らすんだよね?」 「ああ。こうやって」  柾が実紀の手に、手を重ねてきた。とたん、胸がドキリとする。手袋越しでも、彼の手のひらに触れた手の甲が、他の場所より熱くなる。顔まで火照った。  ――何でこんなことぐらいで。中坊みたいじゃん。  照れている自分が恥ずかしい。  柾は実紀の手の動きを見かねて、手を添えてくれただけ。でも嬉しい。  柾とは二週間おきにデートをしてきたけれど、キスはおろか手を繋いだこともなかった。  ――会えるだけで良いって思ってたけど。  やはり自分は飢えていたのかもしれない。手が触れただけで、もっとその先をしたくなる。キスだって。  キッチンタイマーが鳴る。  ――嘘だろ。もう三分終わった?  めちゃくちゃ短く感じた。 「次は一人でやってみろよ」 「やだ。柾、手を添えてて」  次のバットに紙を入れる前に、実紀は柾の顔を見た。至近距離だ。彼の唇は、なんでこんなに形が良いのだろう。   柾のゴーグル越しの目が、一瞬大きく開かれたように見えた。 「じゃあ次」  二人は手を重ねたまま、停止液、定着液と印画紙を移した。最後にバケツに入れる。  二人の手は離れた。 「終わったね」  あっという間に終わってしまった。 「片付けるから、先に風呂から出てな」  平坦な声で言われ、地味に傷つく。柾は全然、何とも思わなかったのだろうか。自分だけがドキドキしてバカみたいだ。  実紀は言われた通り、ゴーグルを外して風呂から出ようとした。ダークカーテンを取り外そうとして、止まる。  ――もう帰らないといけない。  最初から、そんなに長居するつもりはなかった。昨日病院で処方された抗がん剤を、少しでも早く飲まなければならない。  昨日は副作用が気になって飲まなかった。今日、柾とどうしても会いたかったのだ。 退院してから今までも、間隔を置いて抗がん剤を飲んでいた。でも、昨日処方されたのは、桁違いに強い成分が入っている。その上飲む量も多いし、毎日服用だ。副作用が酷く出て、部屋から出られなくなるかもしれない。 ――柾と会うのは今日で最後かもな。 嫌だと思う。また会いたい。一緒にいたい。 でも物理的に無理なのだ。 本当に現実は、儘ならない。 後ろを振り返る。ゴーグルを外しながら、柾がセーフライトのスイッチを切った。真っ暗になる。 「実紀、早くカーテン開けて」  いやだ、と口の中で呟く。  実紀はしゃがみ込んでいる柾の脇にしゃがんだ。真っ暗で顔の輪郭も分からないが、位置は記憶している。赤い残像が目の裏に浮かんでいる。 「まさき」  変に声が掠れた。 「実紀?」  柾の声も掠れている気がして、堪らなくなった。  暗闇の中、見当をつけた場所に、顔を近づけた。唇に触れた。柔らかい唇が。  甘い痺れが首筋に走る。もう駄目だと思った。  手で柾の肩を確認し、首のあたりに腕を回した。  柾に拒まれていない。それどころか、実紀の背中に腕を回してきた。  実紀が口を軽く開けると、するっと彼の舌が入ってくる。  ――嬉しい。嬉しい。  キスぐらいで泣けてくる。  キスぐらいで体中が発火したみたいに熱くなる。  舌を絡め合い、唇を甘噛みし合ったあと、顔を離した。とたん、夢から現実に戻された。  柾の顔は見えない。だから怖い。彼も夢から覚めた顔をしていたら。後悔で青ざめていたら。  柾には圭人がいる。運命の番が。 「ごめん、俺が襲っちゃった」  わざとお茶らけたことを言う。逃げるしかない。  実紀は素早く立ち上がった。相手も動く気配がした。 「実紀」  焦った声。何を考えているんだろう。分からない。でも、これだけは分かる。もう潮時だ。 「そろそろ圭人に返さないとね」  案外、強かな声が出ていた。  実紀はダークカーテンを払って、風呂場から出た。  背後で自分を呼ぶ声がする。  振り返らずに、玄関まで走って、柾の部屋を出た。  柾が追ってこないことにホッとする。でも、寂しい。
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