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39(実紀視点)
二十二時半。
実紀はトイレの便座を上げ、嘔吐していた。これで二回目だ。
再発後に処方される抗がん剤は、やっぱり半端じゃなかった。吐いても吐き気は止まらないし、腹も下した。
便座に手を置いたまま、突っ伏したくなる。脱力感が酷い。眩暈もする。
重い体をなんとか動かし、壁に背中をもたせ掛けて床に座った。
目を開けているのも辛くなって目を閉じた。
このまま寝てしまいたい――そう思ったときだった。
インターホンが鳴った。それも連打だ。
――鳥飼さん、だよね……?
今このときは、来てくれて助かったと――いや、マズい。こんな姿を見られたら、一発でバレるじゃないか。体調が悪いと。詰問されるのは必至だ。
遠くでドアが開く音がした。バタンと閉じる音が大きく感じる。
バタバタと廊下を通り、足音が近づいてきた。
「実紀さん」
やっぱり鳥飼だ。慌てたような声で、もう一度呼ばれる。
「生きてるよ」
生存確認に来るのは良いが、時間を考えて欲しい。もう二十二時を過ぎているのに。
「どうしたんですか、これは。具合が悪いんですか」
鳥飼らしくない、感情的な声だ。焦りと怒りが混じっているような。
実紀はゆっくりと目を開けた。スーツ姿の鳥飼がしゃがみこんで、実紀の顔をつぶさに観察している。至近距離で。
実紀は正直に話すことにした。嘘を吐いても仕方ない。できるだけ知られるのを遅らせたかったが。
「――抗がん剤で副作用が出たんだよ。強いの飲んだから」
「強いの? どういう事ですか」
「再発した」
端的に答えた。自分まで感情的になりたくなかった。疲れていた。
「――いつ、検査したんですか」
鳥飼の声が震えている。ショックを受けているのだろう。
「昨日。朝起きたら頭痛かったから」
「なんで言ってくれなかったんですか。検査が終わってすぐに連絡をくれれば――」
「アメリカに行く段取りも早くできたのに?」
実紀は被せるように言った。
だから彼に早く知られたくなかったのだ。実紀はアメリカに行くつもりはない。が、鳥飼はしつこく説得をしてくるだろう。実紀が承諾するか、死ぬまで。
「アメリカには行かない。今通っている病院で、治療は受ける。また手術で取ってもらうかもしれない」
主治医には手術を勧められた。取ってもまた発生すると思うが。この腫瘍はしつこい。ねちっこい。
「今ならまだ、アメリカに行けます。まだその力があります。実紀さん」
鳥飼が肩を掴んでくる。クールな彼が激している。
「その治療、成功率、低いよね」
博打を打ちにいくようなものだ。局所に菌を注入して、高めた免疫力で癌を叩くのだ。成功すれば病変は消え失せ、予後も良いらしいが、免疫力が思うように上がらなければ、麻痺が起こって腫瘍も大きく膨らんでジ・エンド。
なにより、アメリカの医療費は目玉が飛び出るほど高い。金持ちでなければ破産するぐらいだ。助かるのかも分からない治療に、そんな大金は払えない。それに。
「アメリカの治療を受けて助かったとしても、俺は路頭に迷うかもしれない。父さんの遺産を医療費で食いつぶしてさ」
その可能性は十分にあった。
「そんな心配をしてたんですか」
鳥飼が困惑したような声を出す。
「するだろ。長く生きられるってなったら、自分で働いて食っていかなくちゃならない。五体満足なら問題ないけど、後遺症が残って働けなかったらどうするんだよ。半身不随とか、脳の障害とか、植物状態とか」
実紀は仕方なく本音を吐露した。そうでもしないと鳥飼が納得してくれない。
「だったら、私と養子縁組しますか。実紀さんにもしものことがあったら、私があなたの面倒を見ます」
「は? 何言ってんの。そんなことしてもらう義理はないだろ」
「あります。実紀さんのお父様に、あなたのことを頼まれたんです」
「だからって」
「あなたが助かるなら何でもします」
強い声で言いきられ、実紀は困惑した。
――いくら家族ぐるみで懇意にしてたからって。なんでそんなに。
「養子縁組なんてしたら、奥さんが許さないよ。妻子がいるのに何言ってんだよ」
「それなら、離婚して、あなたと再婚しましょうか」
「なんだよそれ」
ふざけてるのかと疑ってしまうほど、鳥飼の発言はおかしい。
だが、彼の表情は至って真剣だ。
実紀は訳が分からなくなった。頭もクラクラしてくる。
「――具合が悪そうですね。早くベッドへ」
鳥飼がいきなり、実紀を抱き上げた。横抱きにされた状態で、寝室まで運ばれる。
――マジで訳がわからない。
ベッドに寝させられ、布団をかぶされる。
鳥飼がネクタイを緩め、シャツの袖を捲っている。いくら実紀が痩せていても、やはり男だ。重かったのだろう。彼の額に汗が浮いていた。
「運んでくれてありがとう。ところでさ、なんでこんな時間に来たの。あれ届いたから?」
鳥飼が頷いた。
「正式な遺言書、拝見しました。当初の内容とは変わってましたね。納藤柾さんとは――あなたの好きな人ですか」
鳥飼が鋭い視線を投げてくる。実紀は目を瞑って避けた。
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