4 (実紀視点)

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4 (実紀視点)

 三月五日の昼下がりだった。  新宿で買い物を済ませ、JR山手線に乗り込み、空いている席に座ろうと通路を歩いている時だった。ドアに向かってよろよろと歩いてくる男とすれ違った。彼は実紀と同じぐらいの背の高さで、ひと目で美形だと分かった。が、実紀が気になったのはそこじゃない。  彼は尋常じゃない量の汗を額に浮かべ、必死な形相で出口を目指していた。そして、彼の後ろにぴったりと張り付いて歩く、スーツの男。  ――何か今の、マズくないか?  直感だった。  周りの乗客も気になるようで、ちらちらとホームに出た彼らに視線を送っていたが、すぐに素知らぬ顔でスマホ弄りに戻る。  ドアの閉まるアナウンスが流れた瞬間、実紀の体は勝手に動いていた。ドアに向かって走り、ギリギリのところで車内から外に出た。  すぐに二人の姿を見つける。スーツの男が、細身の男の腕を鷲づかみ、引きずるようにしてホームの階段を下りていく。  実紀は自分の予感が的中したのを確信した。 「ちょっと待てよ!」  声を張り上げ、実紀は彼らを追いかけた。 「何してんだよ、あんた」  階段を駆け下り、スーツの男の腕を掴んだ。実紀よりずっと太い腕だった。 「は?」  ハッと、我に返ったような顔をして、スーツ姿の男が実紀の顔を見た。そのあと迷惑そうに口元を歪ませた。 「――この人が具合悪そうだったから、介抱しようと思っただけだよ」  スーツ男の意識が実紀に向かった隙に、引っ張られていた男がスーツ男の手を振り払い、「やめてください!」と叫んだ。  声は大きかったが、震えてもいた。 「迷惑みたいですよ」  実紀が冷めた声で言い放つと、スーツの男はバツが悪そうに顔を背け、逃げるように階段を下りて行った。  とりあえず窮地から逃れられたようだ。 「あの、大丈夫ですか」  大丈夫じゃないよなあ、と思いながらも聞く。  忙しく呼吸をしながら、細身の男は「どうしよう……」と呟いた。彼は手すりを握りしめ、全身を震わせていた。  体を支えてやろうかと、彼の背に手を回そうとして、やめた。ちょっとした体の接触でも、今の彼には刺激が強い。  彼はヒート真っ最中なのだ。 「特効薬は? 持ってない?」 「――忘れた……」  ――「忘れた」って。  特効薬はヒート前のΩにとって必需品だというのに。少し呆れたが、それでも見捨てる気にはならない。 「じゃあ俺の特効薬あげるから。ていうか、今の状態じゃ自分で打てそうにないね。俺が打つよ」  俯いたまま返事をしない男の手を掴むと、彼はあからさまにブルっと震えた。 「トイレ行くよ」  彼を引っ張って駅のトイレに向かった。一応個室に入り、ヒート中の男を便器に座らせ、自分はデイバッグから包装された針と注射器、アルコール脱脂綿を取り出した。 「ほら、特効薬打つから、早くズボン下ろせ」  少し苛つきながら言うと、男がノロノロとズボンを膝下まで下ろした。  実紀は黙々と、針と注射器の包装を開封する。注射器先端のゴムキャップを外し、針を接続する。 「じゃあ打つね」  日焼けしていない白い太腿を軽く摘まみあげ、皮膚の真ん中に若干斜めにして注射針を刺した。  相手はとくに痛がる様子もなく、注射を受け入れている。  注入が終わり、三秒数えてから針を引き抜く。すっと軽やかに。  我ながら手慣れている――なんて自画自賛しながら、針で刺した場所を、脱脂綿で清めた。 「終わったよ。すぐに効くから安心して」  実紀は空の注射器と針を透明のケースに入れ、デイバッグに仕舞った。 「本当だ……」  男が驚いたような声をあげ、目を見開いて実紀を見つめた。 「なんで? こんなに早く効くなんて」 「新薬だから。去年発売されたばっかりのやつ」 「――そうなんですか。あの、お金払います」  男が慌てたように、背負っていたボディバッグから財布を取り出した。 「いいよ、いらない」  どうせ自分には必要ないものだった。特効薬なんて。もし、万一のために持ち歩いているだけの、お守りのようなものなのだ。  必要とすべき人が使えば良い。 「副作用はそんなにないと思うけど――早めに家に帰った方が良いよ」  一応忠告してから個室を出る。と、すぐに追いかけるようにして男がドアを開け出てきた。 「待ってください。こんなに親切にしてもらったのに――何かお礼をさせてください」 「いいって、そんなの」 「お礼させてください。お願いします」  何度断っても「お礼させて欲しい」と言い募られ、トイレを出てからも追いかけられて、実紀は仕方なく折れた。  今までも、見知らぬ人に手助けをしたことはあったが、ここまで律儀に礼を返そうとしてくる人はいなかった。 「いつでも良いから、ご飯でも奢って」  それでチャラね、と付け加える。 「ヒートが終わったらすぐにでも」  必死な顔をして男が言うので、実紀は苦笑しながら、連絡先の交換を承諾した。  それからはとんとん拍子に会う約束をして、『カフェ フラット』で再会し、食事をしながら喋った。これが楽しかった。彼――内川圭人とは共通点が沢山あった。同い年で、性もΩで一緒。学歴もΩにしては珍しい大卒同士。といっても、圭人は理工系、実紀は音大だったが。  二回目に会ったときからは、別れ際に「またね」と言うようになった。自然に。
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