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40(柾視点)
翌日――八月二十八日。
柾は起床してすぐにスマホを確認した。だが、実紀からは何も来ていない。
圭人からはLINEで『連絡待ってる』のメッセージ。
昨日は圭人と会わなかった。会えない理由も言わず、ただ『ごめん』と彼に伝えた。
圭人とはきちんと話し合わなければいけない。ただし、ヒートが終わってからだ。
いま会ったら、話すどころではなくなる。自分は欲情し、彼を抱き潰すだろう。圭人が抑制剤を使っていても、柾はヒート時に出る催淫剤のような香りを嗅ぎ取ってしまうのだ。運命の番だからかもしれない。
「実紀とも話さないと」
ベッドの上で独り言ちる。
帰り際に、彼に言われた言葉が気になっている。
――そろそろ圭人に返さないとね。
柾と圭人の関係を知っているようだった。柾ははっきりと告げた覚えはないので、圭人が言ったのかもしれないし、実紀が察しただけのことかもしれない。
悲しそうな――泣くのを堪えているような声だった。
昨日、実紀がここにいたのは二時間程度だ。短い。それなのに、カーテンが視界に入る度に、一緒にベランダで干したことを思い出す。シャワーを浴びれば、風呂場で起きたことを――。
――実紀と、キスした。
キスをされる前、そうなる気配は察していた。避けようと思えば避けられた。しかし柾は動かなかった。
触れたかったのだ。よく動くあの唇に。
彼の唇は、思っていたより柔らかく甘かった。キス一つで理性が壊された。
もう、自分を誤魔化すことはできない。
――俺は実紀のことが好きだ。
惹かれている、なんてソフトな言葉でやり過ごしてきたが、限界だ。
本当はあのとき、彼が風呂場から逃げたとき、追いかけたかったのだ。だが、ダークカーテンを開けた瞬間、もう一人の冷静な自分が囁いた。圭人がいるのに追いかけるのか? と。
「圭人」
柾は途方に暮れて呟く。
では圭人と別れるのか。運命の番なのに。二年間、慈しみあって愛情を育んできた。その彼を?
ため息を吐き、頭を抱えた。
嫌いになったわけではない。不満もない。だが、嘘を吐いて実紀と引き会わせたことがどうしても引っかかる。あれは裏切りなのではないか。結婚までさせようと企んでいた。
――俺だったら、そんなことはできない。
企みが露見したあとも、実紀と会って欲しいと言ってきた。柾が「実紀に惹かれている」と打ち明けたのに。
一度は実紀と、会わない決意をしたのだ。圭人と恋人でい続けるために。いつかは結婚する相手だと思っていたからだ。
しかし、いま会いたいと思う相手は。
そこまで考えたところで、スマホからメールの着信音がなった。LINEではない。仕事の依頼かもしれない。
スマホを繰ってメールを確認する。と、件名には『一次選考通過のお知らせ』の文字。
――もしかして。
慌てて本文を確認する。
六月に応募した、Z PHOTO AWARDの一次選考を通過し、ノミネート作品としてWebで公開される、とのことだった。
「やった……!」
つい声を上げていた。
早くこのことを伝えたい。きっと一緒に喜んでくれるはず――。
柾はLINEを開いた。そして。
選んだトーク画面は、実紀だった。
実紀の猫のアイコンを眺める。「ぬこ」と言って笑う彼の顔が浮かぶ。思い出すだけで、愛おしい、という気持ちが胸に広がった。
とっくに答えは出ていたのだ。自分が一番、誰と一緒にいたいのか。生きたいのか。
『ちゃんと話がしたい』
気が急いて、気の利いた言葉が出てこなかった。
メッセージを送ったとたん、鼓動が速くなる。会いたい気持ちが強くなった。
だが、五分待っても既読にならない。
スマホの時刻を確認する。九時二分。
まだ起きていないのかもしれない。
柾は午前中に一件仕事をこなしたあと、LINEをチェックした。しかし、先ほど送った実紀へのメッセージは、まだ既読になっていない。
――さすがにこの時間なら起きてるよな。
午後一時を過ぎている。
暫し逡巡したあと、柾は撮影場所のスタジオから出て、廊下に立ったまま実紀に電話をかけた。
三コール鳴ってもまだ出ない。柾は粘り強く待った。その甲斐あって、十コールを過ぎたところで、繋がった。
「はい」
その声は、実紀のものではなかった。もっとずっと、低い声だ。
「実紀さんの電話ですよね?」
「そうですが。あなたは、納藤柾さん?」
着信画面に、登録された名前が出て、分かったのだろう。
「はい、納藤柾です。あなたは」
「鳥飼です。実紀さんの顧問弁護士をしています」
彼が流暢に話した。
――そういえば前に、実紀からも聞いた。
なぜ、本人ではなく弁護士の鳥飼が電話に出るのか。
嫌な予感を覚え、スマホを持つ手が震える。
「鳥飼さん、実紀はどうしたんですか? 電話に出られない状況ですか」
声まで震えそうになった。今すぐにでも彼の元に行きたかった。
「今は、部屋で寝ています。――元気ではないですね」
「元気じゃないって――」
暫し間が空いたあと、「あなたは実紀さんのお友達ですか」と聞かれる。
「そうですね、友達です」
「そうですか」
冷淡な声で言われ、柾は唾を飲んだ。
「今から実紀に会いに行きたいんですが」
実紀が住んでいるマンションは知っている。だが、部屋の番号までは分からない。送り届けるのは、いつもマンションの玄関までだった。
「お断りします」
鳥飼にはっきりと言われ、柾は面食らった。
「なぜですか」
「実紀さんがもう会わないと仰ってました」
「なんで……」
「ご安心ください。実紀さんは、あなたのご希望通りになさっています」
――希望通りって何だ?
「仰ってる意味が分かりません」
「遺言書の件です。全財産、あなたに譲る、と。書きかえられたのです」
「そんな――」
柾は絶句した。
危うくスマホを落としそうになった。訳が分からない。
――実紀は、遺言書まで用意していたのか。
絶望的な気分になった。遺言書を書くということは、死を身近に感じているとうことだ。
「俺に、書きかえた?」
額に嫌な汗が浮いた。なぜ自分に? それに、鳥飼の言葉が気になる。ご希望通りとは、どういう意味なのか。柾は、実紀の遺産なんて一度も欲しいなんて思ったことはない。
「当初は、Ω用の新薬を開発する企業に寄付をする、とのことでした。ですが、最近になって変更したんです。納藤さんのことが好きだからでしょう。でもあなたは、他に恋人がいる」
鳥飼の声は冷淡だが、たまに掠れる。激しているのかもしれない。
「これ以上、実紀さんを振り回さないでください。実紀さんはもう遺言書を書きかえはしないでしょう。あなたは安心して、お付き合いされている方と、遺産が入ってくるのを待っていれば良い」
「なんだよ、それ。俺は遺産なんて欲しくない」
勘違いにも程がある。
「勝手に人を、金の亡者扱いしないでください」
怒りで目の前が真っ赤になった。どうしてここまで言われなければならないのか。
「では、受け取らないんですか」
「当たり前だ。相続放棄する」
迷わず言い切った。迷う方がおかしい。
ややあってから、鳥飼が「分かりました」と言った。心なしか、声が柔らかくなっている。
「実紀さんはまだ寝ています。時間を置いていらっしゃってください」
ようやく訪問の許可が出た。
「分かりました。二時間後に行きます」
柾は電話を切った。
自分にも用事ができた。すぐには実紀に会いに行けない。
スマホを繰って、電話帳を開く。圭人の番号を選ぶ。
どうしても確認したいことができた。
――圭人は予測してたんじゃないのか? こうなることを。
柾と実紀が結婚するのは嫌だと言っていた。それは本音だと思う。嘘はついていないだろう。だが。
実紀が柾に遺産を残すという可能性は、諦めていなかったのではないか。
だから柾に、実紀に会えと言ってきた。もっと実紀が、柾に夢中になるように。
五コール目で、圭人が電話に出た。嬉しそうに柾の名を呼んでくる。
「圭人、今から会えないか」
「いいよ」
すんなり承諾される。今日は平日なのに。
「ちょうど今、柾の部屋に着いたんだ。早く帰ってきて」
「俺の部屋に?」
「会いたかったから」
寂しそうな声の中に、甘えが混じっている。
可愛らしい、と思っただろう。以前なら。
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