40(柾視点)

1/1
前へ
/45ページ
次へ

40(柾視点)

 翌日――八月二十八日。  柾は起床してすぐにスマホを確認した。だが、実紀からは何も来ていない。  圭人からはLINEで『連絡待ってる』のメッセージ。  昨日は圭人と会わなかった。会えない理由も言わず、ただ『ごめん』と彼に伝えた。  圭人とはきちんと話し合わなければいけない。ただし、ヒートが終わってからだ。  いま会ったら、話すどころではなくなる。自分は欲情し、彼を抱き潰すだろう。圭人が抑制剤を使っていても、柾はヒート時に出る催淫剤のような香りを嗅ぎ取ってしまうのだ。運命の番だからかもしれない。 「実紀とも話さないと」  ベッドの上で独り言ちる。  帰り際に、彼に言われた言葉が気になっている。  ――そろそろ圭人に返さないとね。  柾と圭人の関係を知っているようだった。柾ははっきりと告げた覚えはないので、圭人が言ったのかもしれないし、実紀が察しただけのことかもしれない。  悲しそうな――泣くのを堪えているような声だった。  昨日、実紀がここにいたのは二時間程度だ。短い。それなのに、カーテンが視界に入る度に、一緒にベランダで干したことを思い出す。シャワーを浴びれば、風呂場で起きたことを――。  ――実紀と、キスした。  キスをされる前、そうなる気配は察していた。避けようと思えば避けられた。しかし柾は動かなかった。  触れたかったのだ。よく動くあの唇に。  彼の唇は、思っていたより柔らかく甘かった。キス一つで理性が壊された。  もう、自分を誤魔化すことはできない。  ――俺は実紀のことが好きだ。  惹かれている、なんてソフトな言葉でやり過ごしてきたが、限界だ。  本当はあのとき、彼が風呂場から逃げたとき、追いかけたかったのだ。だが、ダークカーテンを開けた瞬間、もう一人の冷静な自分が囁いた。圭人がいるのに追いかけるのか? と。 「圭人」  柾は途方に暮れて呟く。  では圭人と別れるのか。運命の番なのに。二年間、慈しみあって愛情を育んできた。その彼を?  ため息を吐き、頭を抱えた。  嫌いになったわけではない。不満もない。だが、嘘を吐いて実紀と引き会わせたことがどうしても引っかかる。あれは裏切りなのではないか。結婚までさせようと企んでいた。  ――俺だったら、そんなことはできない。  企みが露見したあとも、実紀と会って欲しいと言ってきた。柾が「実紀に惹かれている」と打ち明けたのに。  一度は実紀と、会わない決意をしたのだ。圭人と恋人でい続けるために。いつかは結婚する相手だと思っていたからだ。  しかし、いま会いたいと思う相手は。  そこまで考えたところで、スマホからメールの着信音がなった。LINEではない。仕事の依頼かもしれない。  スマホを繰ってメールを確認する。と、件名には『一次選考通過のお知らせ』の文字。  ――もしかして。  慌てて本文を確認する。  六月に応募した、Z PHOTO AWARDの一次選考を通過し、ノミネート作品としてWebで公開される、とのことだった。 「やった……!」  つい声を上げていた。  早くこのことを伝えたい。きっと一緒に喜んでくれるはず――。  柾はLINEを開いた。そして。  選んだトーク画面は、実紀だった。  実紀の猫のアイコンを眺める。「ぬこ」と言って笑う彼の顔が浮かぶ。思い出すだけで、愛おしい、という気持ちが胸に広がった。  とっくに答えは出ていたのだ。自分が一番、誰と一緒にいたいのか。生きたいのか。 『ちゃんと話がしたい』  気が急いて、気の利いた言葉が出てこなかった。  メッセージを送ったとたん、鼓動が速くなる。会いたい気持ちが強くなった。  だが、五分待っても既読にならない。  スマホの時刻を確認する。九時二分。  まだ起きていないのかもしれない。  柾は午前中に一件仕事をこなしたあと、LINEをチェックした。しかし、先ほど送った実紀へのメッセージは、まだ既読になっていない。  ――さすがにこの時間なら起きてるよな。  午後一時を過ぎている。  暫し逡巡したあと、柾は撮影場所のスタジオから出て、廊下に立ったまま実紀に電話をかけた。  三コール鳴ってもまだ出ない。柾は粘り強く待った。その甲斐あって、十コールを過ぎたところで、繋がった。 「はい」  その声は、実紀のものではなかった。もっとずっと、低い声だ。 「実紀さんの電話ですよね?」 「そうですが。あなたは、納藤柾さん?」  着信画面に、登録された名前が出て、分かったのだろう。 「はい、納藤柾です。あなたは」 「鳥飼です。実紀さんの顧問弁護士をしています」  彼が流暢に話した。  ――そういえば前に、実紀からも聞いた。  なぜ、本人ではなく弁護士の鳥飼が電話に出るのか。  嫌な予感を覚え、スマホを持つ手が震える。 「鳥飼さん、実紀はどうしたんですか? 電話に出られない状況ですか」  声まで震えそうになった。今すぐにでも彼の元に行きたかった。 「今は、部屋で寝ています。――元気ではないですね」 「元気じゃないって――」  暫し間が空いたあと、「あなたは実紀さんのお友達ですか」と聞かれる。 「そうですね、友達です」 「そうですか」  冷淡な声で言われ、柾は唾を飲んだ。 「今から実紀に会いに行きたいんですが」  実紀が住んでいるマンションは知っている。だが、部屋の番号までは分からない。送り届けるのは、いつもマンションの玄関までだった。 「お断りします」  鳥飼にはっきりと言われ、柾は面食らった。 「なぜですか」 「実紀さんがもう会わないと仰ってました」 「なんで……」 「ご安心ください。実紀さんは、あなたのご希望通りになさっています」 ――希望通りって何だ? 「仰ってる意味が分かりません」 「遺言書の件です。全財産、あなたに譲る、と。書きかえられたのです」 「そんな――」  柾は絶句した。  危うくスマホを落としそうになった。訳が分からない。  ――実紀は、遺言書まで用意していたのか。  絶望的な気分になった。遺言書を書くということは、死を身近に感じているとうことだ。 「俺に、書きかえた?」  額に嫌な汗が浮いた。なぜ自分に? それに、鳥飼の言葉が気になる。ご希望通りとは、どういう意味なのか。柾は、実紀の遺産なんて一度も欲しいなんて思ったことはない。 「当初は、Ω用の新薬を開発する企業に寄付をする、とのことでした。ですが、最近になって変更したんです。納藤さんのことが好きだからでしょう。でもあなたは、他に恋人がいる」  鳥飼の声は冷淡だが、たまに掠れる。激しているのかもしれない。 「これ以上、実紀さんを振り回さないでください。実紀さんはもう遺言書を書きかえはしないでしょう。あなたは安心して、お付き合いされている方と、遺産が入ってくるのを待っていれば良い」 「なんだよ、それ。俺は遺産なんて欲しくない」  勘違いにも程がある。 「勝手に人を、金の亡者扱いしないでください」  怒りで目の前が真っ赤になった。どうしてここまで言われなければならないのか。 「では、受け取らないんですか」 「当たり前だ。相続放棄する」  迷わず言い切った。迷う方がおかしい。  ややあってから、鳥飼が「分かりました」と言った。心なしか、声が柔らかくなっている。 「実紀さんはまだ寝ています。時間を置いていらっしゃってください」  ようやく訪問の許可が出た。 「分かりました。二時間後に行きます」  柾は電話を切った。  自分にも用事ができた。すぐには実紀に会いに行けない。  スマホを繰って、電話帳を開く。圭人の番号を選ぶ。  どうしても確認したいことができた。  ――圭人は予測してたんじゃないのか? こうなることを。  柾と実紀が結婚するのは嫌だと言っていた。それは本音だと思う。嘘はついていないだろう。だが。  実紀が柾に遺産を残すという可能性は、諦めていなかったのではないか。  だから柾に、実紀に会えと言ってきた。もっと実紀が、柾に夢中になるように。  五コール目で、圭人が電話に出た。嬉しそうに柾の名を呼んでくる。 「圭人、今から会えないか」 「いいよ」  すんなり承諾される。今日は平日なのに。 「ちょうど今、柾の部屋に着いたんだ。早く帰ってきて」 「俺の部屋に?」 「会いたかったから」  寂しそうな声の中に、甘えが混じっている。  可愛らしい、と思っただろう。以前なら。
/45ページ

最初のコメントを投稿しよう!

491人が本棚に入れています
本棚に追加