41(圭人視点)

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41(圭人視点)

 柾の部屋に入ったとたん、まぶしくて目を細めた。カーテンが全開になっている。砂埃で薄汚れた掃き出し窓が、キラキラと光っていた。  圭人は窓まで歩いていき、微かに洗剤の匂いが残る白いカーテンを静かに閉めた。  ――やっと洗ったんだ。  ずっと気になっていた汚いカーテンが真っ白になっている。柾が自発的に洗濯したのだろうか。何年も洗っていなかったのに?  近くのベッドを見る。起きてそのまま出て行った感じだ。少し乱れた掛布団、位置のずれた枕、真ん中に皺が集中したシーツ。  フローリングの床は、相変わらず物が置いてあって、座れる場所はない。キッチンスペースに行く。と、ダイニングテーブルに、アルバムが積んでおいてある。五冊。  一番上のルバムを開く。ページを適当に捲る。どれも日常を切り取ったような、とりとめのない写真だ。人、花、虫、家屋。すぐにアルバムを閉じた。  なぜアルバムが、本棚から引き抜かれているのだろう。柾が気まぐれに取り出して、過去に撮った写真を見直したのだろうか。  ユニットバス、トイレ、キッチンの流しもくまなく見てみるが、実紀が来たと分かるような痕跡はない。  来てはいないのかもしれない。カーテンとアルバムが気になるけれど。  ベッドに座って、柾が帰ってくるのを待った。落ち着かない。通いなれた部屋なのに。  なんとなく、圭人はイライラしていた。発情期だからだろう。抑制剤を飲んでいても、裡にある欲求までは消せないのだ。  二か月近く、柾と外でデートをしていた。映画を見たり、たまたま見つけた通りすがりの店で食事をしたり。それはそれで楽しかった。でも物足りない。外ではひと目があるから、手は繋げないしキスもできない。  柾は平気なのだろうか。スキンシップがなくなって。――セックスもしなくなって。  今回の発情期は、いつもよりも心待ちにしていたのだ。ヒートになったら、さすがに柾も抱いてくれるだろうと。一週間部屋にこもって欲望をぶつけ合ったら、今までの不安は消えてくれると思った。でも、柾は圭人と会ってくれなかった。仕事があるのなら仕方がないが、柾は理由を言わなかった。  二か月もセックスレスだったのに、ヒートの時まで相手をしてくれないなんて。  ――実紀に気を遣ってる?  実紀は今、元気だろうか。ずっと会っていない。LINEのやり取りもない。  柾から様子を聞くことはできるが、最近は質問の数も減っている。  柾との会話自体が、徐々に少なくなっている。  自分のせいで、こんな状況になっている。柾が実紀と会わないと言ったときに、同意すればよかったのかもしれない。実紀と会わさずに、自分とだけ会っていれば。  ――それじゃあ駄目なんだ。  実紀の方も、柾に冷めるかもしれない。会わないでいれば気持ちは落ち着く。  遺言書は書いているだろうか。書いているはずだ。実紀ほどの金持ちなら、自分の死後、財産をどうするかはきちんと書き残しておく必要がある。 「ずっとこれが続くわけじゃない」  自分に言い聞かせる。こんな状況は長く続かない。いつか終わるのだ。  二人になって、経済的な問題もクリアすれば、すべて良い方向に進むだろう。無理にでもそう思うことにする。  圭人は手に持っていたスマホを見た。柾から連絡はない。  ベッドに体を倒し、天井をぼんやりと眺める。二十年以上リフォームしていない汚れた天井。――もしかしたら。近いうちにこの部屋も引き払うことになるかもしれない。もっと新しくて広い部屋に柾が移るかもしれない。  そんな夢想をして、してしまった自分に嫌気がさした。  枕をぎゅっと抱いて、落ち着こうとする。だけど、嫌な予感ばかり襲ってくる。柾を失う予感。  ドアの開く音がした。圭人は上体を起こした。柾が玄関に立っている。 「柾」  自然な笑顔を心掛け、ベッドから下り、柾の元に向かう。 「圭人、そこにいて」  強い声で言われ、圭人はその場で止まる。ダイニングテーブルの椅子と並んだ状態になる。 「なに、どうしたの?」  柾はマスクをしていた。靴を脱ぐ素振りもない。  圭人は察した。柾はヒートの自分に近付きたくないのだと。  柾の顔をじっとみる。顔の半分が覆われていて表情が良く分からない。目は、怒っている風ではない。だが、優しくもなかった。 「圭人は、実紀の弁護士のこと知ってる?」  予想もしていなかった質問に、圭人はまごついた。記憶を辿るが、実紀から弁護士の話をされたことはなかった。さすがだな、と思う。実紀ほどの富豪だと、弁護士も雇うのか。 「知らないけど」 「その人とさっき話をしたんだ。実紀の遺言書の話だ」  遺言書――そのフレーズに、圭人の鼓動は速くなった。手のひらが汗ばむ。 「遺言書って……まだ実紀は生きてるよね」  実紀が死ぬ前に、遺言書の内容を知ることができるんだろうか。 「生きてるよ、ちゃんと。実紀は、俺に財産を残すって書いているらしい」  また鼓動が跳ねた。自分の予想通りだ。実紀はきっと、柾に遺産を相続させると思っていた。以前実紀は、Ω向けの薬品開発の企業に寄付をすると言っていた。実紀にとって特別な人がいなかったからだ。その時は。 「そうなんだ」 「――驚かないんだな」 「そんなこと、ないよ」  顔が強張った。柾の声が怖くて。 「俺は相続放棄するよ。実紀の弁護士にも話した」 「なに言って――」  圭人は思わず、大きな声を発していた。慌てて口を手で押さえた。でももう、遅い。  部屋が静まり返った。  柾は何も言わない。俯いている。 「俺はね、圭人」  圭人は黙って、柾の口の動きを見ていた。 「お金がないことよりも、実紀が死ぬことの方が辛い」 「俺だってそうだよ。当たり前だろ」  かすれた声が、虚しく鼓膜に響く。  柾が顔を上げ、マスクを取った。形の良い唇が現れる。 「貧乏よりも――死んだ実紀から金を相続して、ずっと罪悪感に苛まれる方が嫌なんだ」  じっと圭人の顔を見据えてくる。柾の顔に汗がジワリと浮いている。苦しそうに眉を寄せて。でも、部屋には入ってこない。 「――柾はどうしたいの」  圭人の声は震えていた。悪い予感が的中してしまう予感に、嫌だと叫びそうになる。 「実紀の傍にいたい。たとえ長く生きられなくても、それまでは傍にいたいんだ。俺が」  ごめん、と呟いて、柾が頭を下げてくる。  ――ああ、もう駄目なんだ。俺たちは。  涙は出てこない。どこか他人事のように思ってしまう。  ――だって俺たち、運命の番なんだよ。  唯一無二の、魂のレベルで結びついた、運命の。  ――でも、不一致だらけだ。  涙が出てこない。柾はまだ頭を上げていない。  ――好きなことは一致していたけど。  辛いと思うことが一致していなかった。  嫌だと思うことが一致していなかった。  ――俺は、貧しさを嫌悪している。  どうしても嫌だ。お金に困って、心が擦り減っていくのは、絶対に嫌なのだ。  柾は辛くないのだ。お金がなくても、自分の信じる道を歩こうとしている。  ――もう、ダメなんだ。 「俺は、お金がないことが、なにより嫌なんだ」  圭人は認めた。認めたくないけれど、認めた。  叔母に負い目があるから、彼女の望む相手と結婚したい。それは嘘じゃない。本当だ。だけど、自分自身が、金持ちと結婚したかった。今の柾とじゃ、駄目だった。 「もういいよ。頭を上げて」  圭人はしっかりと、腹から声を出した。  柾が顔を上げる。まだ、汗はダラダラと額から流れている。顔は赤い。薄く開いた口からは忙しない呼吸音がする。 相当我慢しているのだろう。圭人が垂れ流しているフェロモンを吸って、本当はすぐにでも圭人を押し倒したいだろうに。  我慢しているのだ。実紀のために。  柾が背を向けた。ドアを開ける。まぶしい日の光が隙間から入り込んでくる。 「実紀と引き合わせてくれてありがとう」  柾の声が消えると同時に、ドアが閉まった。  一人になった部屋で、圭人は何度も繰り返す。  仕方ない。仕方ないんだ。  何度も選ぶ場面はあった。  愛だけだったら、確実に与えられた。  愛と金両方だと、手に入れる確率は下がる。  いつも自分は、愛と金、両方を選んでしまった。  だから柾に去られた。 「もう会えない」  彼は行ってしまった。実紀の元に。
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