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42(柾視点)
実紀のマンションに着き、着信履歴の番号に電話をかけた。鳥飼がすぐにでる。
「いま、マンションの玄関です」
「では、そちらに参ります」
一分も経たずに、ビジネスバッグを携えたスーツの男がやってきて、エントランスのドアを開けてくれた。
「まっすぐ行った突き当りの部屋です」
鳥飼の後に続く。
「実紀の状態はどうなんですか」
今知りたいのはそれだけだった。
「抗がん剤の副作用で苦しんでいます。あなたが電話を掛けてきたとき、ちょうど実紀さんが寝付いたところだったんです。そろそろ起きる頃です」
すぐに、実紀の部屋番号のドアに辿り着く。
「入る前に、お願いしたいことがあります」
鳥飼が柾の顔を見た。真剣な表情だ。
「実紀さんに、アメリカに行って治療を受けるように説得して頂けませんか」
柾の顔をまっすぐに見た彼が、頭を下げてくる。
「お願いします」
その声は切実としていた。焦りも含まれている。
「――アメリカの治療なら、実紀が助かるんですか」
「百パーセントではありません。ですが、日本で既存の治療を受けるよりは、寛解の可能性が高い」
しっかりとした口調で鳥飼が言った。
「実紀さんも、治療辞自体が嫌なわけじゃないと思います」
「ではなんで、嫌がってるんですか」
生きることに貪欲そうな実紀が、効果的な治療を受けたくない、とは。
「医療費の問題です。アメリカは、日本より桁違いに高い。保険に入っていない人は破産する人も多い」
「実紀は、それぐらい払えるお金はあるんでしょう?」
莫大な遺産を相続したはずだ。いや、圭人からしか、その情報はもたらされていないが。
「払えはしますが、あなたが思っているほど、実紀さんの資産は潤沢じゃない」
「そう、なんですか」
「お父様が亡くなられたときに、相当な額の医療費を払いましたし、もともとお父様は、お金を貯めこむタイプではなかった」
そういえば、外商で買い物をすると言っていた。
「治療を受けて命が助かっても、後遺症があるかもしれない。そうなったら、身体的にも経済的にも厳しくなる。だから実紀さんは、アメリカに行ってまで助かりたくないと」
「そんな」
「もし治療後に実際そうなったら、私が面倒を見ると申し出たんですが――断られました」
「面倒を見るって」
柾は鳥飼の顔をマジマジと見た。なぜそこまでしてくれるのだろう。彼は実紀の顧問弁護士というだけで、血のつながりもない。恋人でもない。
「あなたはなぜそんなに、実紀に親身になってくれるんですか」
彼には裡に秘めている何かがありそうだ。柾は気になった。
鳥飼は少し考えるように顎を指で摘まんだが、すぐに口を開いた。
「これから話すことは、他言しないと約束してください。実紀さんにもです」
真剣な顔で言われ、柾は頷いた。
「実紀さんは――私の運命の番です」
彼が言い終わって口を閉じても、柾は何も反応ができなかった。意識が遠のきそうになる。
――この人が、実紀の「運命の番」?
俄かには信じられなかった。
「なんで、そう思うんですか。確信はあるんですか」
「香りで分かったんです。花のような、嗅ぐと頭がぼんやりするような甘い匂いです。実紀さんは香水なんて着ける年齢じゃなかったのに、常にふわふわと香っていた」
「いくつのときですか」
「私が十八、実紀さんが六歳のときです」
「まだ子供じゃないですか」
「それでも私にだけ香ってくるんです。最初は意味が分かりませんでした」
鳥飼が息を吐いて目を閉じ、すぐに開けた。
「実紀さん親子と、私と父でフランスに旅行をしたことがあるんです。二人で同じベッドに寝っ転がって話していたとき、実紀さんからまた良い匂いがしてきて――私は性的な興奮を覚えました」
本当は言いたくないのだろう。苦しそうに眉が寄せられ、唇がゆがんだ。
「これは尋常じゃないと思いました。自分の意志を無視して、勝手に体が反応する。同じ空間にいるのが怖くなりました。旅行から帰ってきてからは、実紀さんと会うのをやめました」
それは英断だ。会ってはいけないと、柾も思った。
「実紀が大きくなるまで待とうとは思わなかったんですか」
「思いませんでした。そのときすでに、私には番った相手がいました。当時付き合っていた同級生です。今は妻です」
「ああ――そういうことなら、実紀と一緒になろうとは思いませんよね」
「ええ。実紀さんとは二度と会わないつもりだったのですが、お父様が亡くなられて、会わざるを得なくなりました。お父様に頼まれましたので。実紀さんのことを」
「それで顧問弁護士をしてるんですね」
「そうです。再会する直前は緊張しましたよ。またあの香りに誘われたら、実紀さんを襲ってしまうかもしれないと。でもそれは杞憂でした。実紀さんからは何の匂いもしなかった」
鳥飼が目を伏せて、息を吐く。
「抗がん剤の副作用ですよね」
柾も、実紀からΩの匂いを察知することができない。
「ホッとしました。これなら惑わされずに済むと。しかしやはり、運命の番だったのだと今は痛感しています」
鳥飼が苦い顔をした。
「警戒を解いたせいで、いつの間にか私は、実紀さんに心を開いていた。彼が助かるなら何でもしたいとまで思っている」
鳥飼が柾の顔を見た。
「納藤さんには、運命の番の恋人がいるんですよね」
確認するように問うてくる。
「――もう別れました」
ここに来るために、実紀と会うために。
――もういいよ。頭を上げて。
圭人の声が耳に蘇る。今にも泣き出しそうな顔をしていたのに、声は毅然としていた。
「別れたんですか」
鳥飼が嘆息した。
「思い切ったことをしましたね。そこまでしなくても良いと思いますが」
今度は鳥飼に苦笑される。
「何でですか」
柾は半ばムキになって聞いていた。
実紀のことが好きだと自覚しおきながら圭人とも付き合い続けるなんて、自分にはできない。卑劣で不実な行為だ。
「運命の番は根深いんですよ。私は実感しています。実紀さんにはΩのフェロモンがないのに――私は彼に惹かれてしまう」
彼は苦しそうに声を吐き出したあと、柾に部屋の鍵を渡してくる。
「明日の飛行機のチケットは取っています。納藤さんは実紀さんを説得してください。私はこれから自宅に戻って荷物の準備をしてきます」
鳥飼が柾に一礼し、エントランスへと走っていく。
彼の背中を見つめながら、柾は「違う」と呟いた。
鳥飼は、実紀が運命の番だからフェロモンがなくても彼に惹かれると言っていたが。そうではないと思う。
性別なんて関係なく、一人の人間として実紀のことを好きになっただけだ。柾と同じように。
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