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43(実紀視点)
実紀はゆっくりと目を開けた。
頭痛は起こらない。ホッとする。
昼寝をする前まで、寝室に鳥飼がいたのだが、今はいない。
体を起こす気にもならず、仰向けに寝たまま、ぼんやりする。
唇をそっとなぞる。
昨日、柾とキスしたことを思い出す。
「あー覚えてる」
記憶があることに安堵する。
今日は朝からずっと、ベッドでだらけて過ごしている。動くのがしんどいから。
新しい抗がん剤に体が慣れれば、もう少しまともに過ごせるようになる、と思いたい。
スマホでもしようと、ベッド周りを見てみるが、なさそうだ。どこにやったっけ? と首を傾げる。
「鳥飼さーん」
呼んでみるが、返事はない。外に出かけているのかもしれない。
つまらないので、電極パッドから解放された手触りザラザラの頭皮を撫でてみる。と、足音が近づいてくる。鳥飼が戻ったみたいだ。
「鳥飼さーん、俺のスマホ」
続きの「しらない?」は口から出なかった。
寝室のドアが開き、そこに立っていたのが柾だったからだ。
「柾」
――何でここに?
もう会わないと決めたのに。
――こんな姿、見られたくなかったのに。
「入って良いか?」
柾が律儀に聞いてくる。ここまで来ておいて。
「いいよ」
心配になって来てくれたのだろうか。昨日の自分の態度がおかしかったから。急に会いたいとかLINEしてしまったし。
柾が寝室に入ってくる。ベッド脇にある収納スツールにストンと腰を下ろした。
「体調はどうなんだ」
心配そうな目をして、実紀の顔を窺ってくる。
「そんなに悪くないよ。かったるいから寝てるだけ」
よいしょ、と発した掛け声とともに、実紀は上体を起こした。大丈夫、今はしんどくない。
「どうやってここに――って、鳥飼さんか」
「そうだよ。鳥飼さんと電話でやり取りして、部屋の前まで連れて来てもらった」
柾が手に持っていた鍵を見せてくる。
鳥飼が勝手に実紀のスマホを使って、柾をここに招いた、ということか。
「鳥飼さんは?」
「自宅に戻ったよ。荷造りしに」
「あ――」
実紀はうんざりして、音声付きのため息を吐いた。
鳥飼はアメリカのテキサス州に行く気満々のようだ。実紀はイエスと言っていないのに。
「アメリカに行かないのか。効果的な治療法があるんだろ?」
「――鳥飼さんに俺の説得を頼まれた?」
「ああ。実紀がアメリカに行きたがらない理由も聞いた」
「――あんの人、たまにお喋りになるんだよなあ」
ノッてないときは、ひたすら寡黙なのに。
「実紀、お前が治療の後のこととか、金銭的なことを考えるのは分かるよ。身内がいないんだろ」
「そうだよ、一人もいない」
だから自分のことは、自分で始末をつけるしかない。頼れる人がいないのだ。
財産が底を尽きるギリギリのラインというのも、見極めが難しい。先進医療を受けるにしても、どこまでやるべきなのか。実紀には判断が難しすぎる。
中途半端に金があるのも考えものだ。初めからなければ潔く諦められるのに。
柾がすいっと、ベッドの掛布団に手を置いた。そんなことでドキリとした。
「――俺が実紀の身よりになるよ」
「――え?」
「まえ働いてた会社に戻ろうと思う。『フリーで上手くいってなければ戻ってこい』って元の同僚から連絡が来てるんだ」
「なに言ってるんだよ。柾がそんなことする理由ないだろ。俺の身よりって――圭人は?」
嫌な予感がした。身寄りになるなんて、そんなプロポーズみたいなことを柾が簡単に言ってのけるなんて。
「別れたよ」
「――なんで」
喉が枯れたみたいに、声が掠れた。
「実紀のことが好きだからだ」
ストレートに告げられて、実紀は「え」と言ったまま固まった。
――俺のこと好きになって、圭人と別れたって?
ちょっと待てよ、と怒りたくなる。実紀は圭人から、柾を取るつもりなんてなかった。微塵も期待していなかったのに。
「俺は、区切りをつけたくて昨日会いに行ったんだよ」
声が小さくなる。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。いくら柾を好きになったからって、圭人に謀られていたことに怒りを覚えたからといって、運命の番の仲を壊すなんて、やって良いことではない。
「考え直せよ。いますぐもとさや」
話している途中で、いきなり口をふさがれた。やんわりと。
「俺がお前と一緒にいたいんだよ。もう一度言う。好きだ」
まっすぐに柾が実紀だけを見てくる。揺るぎのない双眸でしっかりと。
嘘ではないと訴えている。
――でも俺は、いつまで生きられるか分からない。
急に泣きたくなる。
――なんで俺がこんな病気に。
理不尽過ぎる。こんな状況で両想いとか。
――嬉しいけど、辛いし。
「実紀は?」
質問というより、確認を取るような、穏やかな声だ。
「好きに決まってるだろ」
言ったとたん、箍が外れた。両目からはつつ、と涙が零れた。上体が柾の方に傾く。両手が勝手に上がる。
「じゃあ、アメリカに行くよな?」
柾の言葉に、実紀はピタリと動きを止めた。
「それは」
「俺に財産を譲るぐらいなら、受けたい治療をとことん受けろよ」
「でも、決めたんだ」
「死んだあとの金の使い道を? でもたいした決意じゃないだろ。寄付から俺にすぐに変えて」
「なんだよ、その言い方」
遺言書のことも鳥飼が話したのか。お喋りすぎる。
「変更できるってことは、さほど強い意志じゃないってことだろ」
急に激したように、柾が声を荒げた。
「俺が受け取ると思ったのかよ」
柾の声が途中で震えた。
実紀は彼の顔を見た。目が赤い。
「受け取ると思った?」
もう一度柾が問うてくる。
「――思わないよ」
柾は受け取らないだろう。自分は分かっていた。一億円をもらっても柾は喜ばない。実紀の死があってこその金を、受け取るわけがないのだ。
「思わない」
もう一度実紀は言った。
「でも、寄付は本気で考えてたよ」
「じゃあなんでお前は、寄付の話を俺にした?」
「え?」
「言いふらして、『偉いね』『立派だね』って自分の決断を肯定してほしかったんだろ。迷ってたからだ。本当にこれでいいのか自信がなかったから、他人に後押ししてほしかったんだ」
――そうなのかもしれない。
柾の意見に、腑に落ちるものがあった。
自分でも不思議だったのだ。寄付のことを積極的に話したくなるのが。
「名誉が欲しいから、だと」
そう結論づけていた。自分で。
「本当に欲しいものは他にあるだろ?」
柾が体を寄せてきた。両手で肩を掴まれる。
「欲しいもの――」
実紀は呟いた。
いきなり問われても、すぐに答えらえない。
「曲を作って歌う時間だろ」
柾が業を煮やしたように解を言った。
「『インナーライト』でも『Shine』でもお前は訴えてた。音楽さえあれば生きていけるって。俺の解釈は間違ってるか?」
実紀は息をのんだ。また涙が勝手に零れてくる。
――そうだ、俺は、一分一秒でも多く、音楽に触れていたいんだ。曲を作って歌いたい。
地位も名誉もお金もいらないから、時間をください。そう願っていた。
どうして柾は、こんなに自分のことを理解してくれているのだろう。
「合ってる。正解」
実紀は泣きながら笑った。柾に出会えたことが奇跡なんじゃないかと思った。
「だったら迷っている時間はないだろ? 側頭葉は音楽を認知する機能があるんだから」
柾が実紀の頭を撫でてくる。側面の傷痕を。
「早く治療しないとな」
実紀は頷きながら、柾に勢いよく抱きついた。そうすることを、自分に許した。
「ありがとう」
ここに来てくれて。
――好きになってくれて。
背中に回ってくる腕が、愛おしい。
「好きだ」
二人は同時に言って抱きしめ合う。
――しぶとく生きてやる。
柾と一分一秒でも長く、一緒に居たい。
だから、生きよう。
命を燃やして。
燃え尽きるまで。
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