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5 (柾視点)
午後九時過ぎ。
柾はJR山手線で、渋谷から大崎にあるアパートに帰ってきた。圭人を伴って。
一昨日まで圭人の発情期で盛っていたため、今夜はお互いその気になれず、セックスしないで、ゆったりのんびり過ごすことになった。
早く風呂に入ってパジャマを着た。一緒に歯磨きをしてから、ベッドでゴロゴロしながら話をする。専ら話題は実紀のことだった。
実紀との会食で、気になったことがいくつかある。
「本当に結城さんてΩなのか」
単刀直入に疑問を口にした。
とたん、柾の腕枕で気持ちよさそうに目を閉じていた圭人が、「え? なんで?」と体を寄せて聞いてきた。目をパッチリと開けて。
彼の白い頬にキスをしてから、柾は答えた。
「Ωの匂いが全然しなかった」
「発情期じゃなかったからだろ」
「発情期じゃなくても、Ωだったら多少匂うよ。ふつうは」
「――そうなんだ」
圭人が何か考え込むように顎に指を当てた。
「でもΩだと思うよ。特効薬だって持ってたんだし」
「そうだよな」
Ωじゃないのに特効薬を持ち歩くなんておかしい。第一、特効薬は処方箋がないと購入できない。それに、彼が持っていたのはジェネリックではなく新薬だ。保険が利いても相当な額になるだろう。
「――もしかしたら、病気の影響でフェロモンが出ないのかも」
若干、声のトーンを下げて、圭人が控えめに言った。
「病気?」
「柾は気にならなかった? 実紀の頭に傷があるの。あれ、手術の痕だと思う」
圭人が耳の上あたりを、指で差し示した。
「確かに、あったな」
柾も彼と話している途中で気がついた。頭の側部に弧を描くように傷が入っていた。その部分だけ肌色で、毛髪が生えていなかった。スキンヘッドだから傷が余計に目立っていた。
「変わってるよな、あえてあの髪型にしてるのかな」
ふつうに髪を伸ばした方が、傷が隠れるのに。
「そうだね……頭の手術したときに剃ったら、スキンヘッドが気に入ったとか? 本人も言ってたよね。楽だって」
「そうだな。もう病気は大丈夫なのかな。圭人は何か聞いてる?」
柾が実紀と会って話した限りでは、彼はとてもはつらつとしていて元気だった。顔全体でよく笑い、よく食べ、よく喋った。ユーモアのある受け答えができ、更に柾たちの話もしっかり聞いてくれた。
人付き合いに慎重な圭人が、自分から友達になりたい、と思うのも頷けた。実紀は一人の人間として、安心して付き合える相手だと思った。
「聞いてないよ。病気のことって、デリケートな問題だから。実紀から話してくれたらもちろん聞くけど」
圭人が憂鬱そうに眉を寄せてため息を吐いた。
「でも、気になるよね」
そう圭人が言ったところで、沈黙が生まれた。
どちらともなく、顔を寄せ合って口づける。喋らないときはキス。ふたりの、恥ずかしくて他人には言えないような甘い約束事。
「そろそろ寝ようか。圭人、眠そうだ」
「そうだね……ヒートが終わったばっかで、まだ疲れてる」
ふにゃっと笑って、圭人が抱き着いてくる。可愛さのあまり、抱き返す腕に力が入りすぎて、圭人が「痛い」と言ってまた笑った。
それからすぐに、圭人の寝息が聞こえてくる。
本当に可愛い恋人だと思う。早く結婚して、いつも一緒にいたいとも考える。
――でも、今はまだ駄目だ。
自分には地位も名誉もなく、安定した職も貯蓄もない。ないない尽くしだ。
地位と名誉――これらは手に入れるまでに時間と努力を要するだろう。運だって関わってくる。だったら職を変えて貯蓄に励むしかない――理性では分かっている。
でもどうしても、カメラマンという仕事を辞められずにいる。
カメラマンになること――それは小学生の頃からの夢だった。
高校に入ってすぐの頃、柾は両親に芸大の写真科に行きたいと打ち明けた。が、二人に一斉に反対された。そんなの趣味でもできるでしょう、と何度も言われたし、現実を見て就職に強い理工系か経済学部に進学しろと説得された。仕舞いには、芸大なんて金がかかりすぎる、と受験料を支払うことを拒否された。
反対されればされるほど、芸大に行って写真の勉強をしたい気持ちが強くなった。
結果、柾は奨学金制度を利用して芸大に入った。保証人は、まだその頃働いていた祖母になってもらった。四年間、バイトを二つ掛け持ちしながら勉強もこなすというハードな毎日を続け、大変な思いをして大学を卒業した。幸い、狭き門でもあるヴィジュアルコンテンツ制作会社――『maana』に就職できた。大学在学中に写真のコンテストで入選したことがあったので、それもちょっとはプラスになっているかもしれない。
――それで、今の状況か。
二年間、『maana』で、現場の撮影を経験して、コネもつけた。その上でフリーランスになったが、上手くはいっていない。一週間に一件も仕事が入らないことも珍しくないし、赤字になる月もよくあるという、情けない現状。
――一応俺、αなんだけど。
間違いはない。中学で受けた性別判定で『α』だったのだ。柾も両親も驚いた。親がβだったら、子供もβ。それが定説だと思っていたからだ。だが、実際はそうでもないらしい。詳しく調べてみると、両親がβでも、αやΩが生まれることが稀にあるらしい。自分はその、稀ってやつらしい。
たしかに、勉強やスポーツはα並みにできたし、体格、顔にも恵まれていた。
両親もよく言っていた。「トンビが鷹を生んだ」と。
親にとって自慢の息子にはなれたが、自分がαだと分かって喜んでいられたのはほんの束の間だった。βの兄と弟からは嫉まれて仲が悪くなり、高校に入り芸大に行きたいと告げてからは両親とも不仲になった。
高校までは学校生活も結構大変だった。同じαは裕福じゃない柾を見下してきたし、一部のβからは、「俺たちとは住む世界が違う」とか言われ、勝手に距離を置かれた。友好的に接してくれたのはΩの男女だったが、正直、ヒートをきちんとコントロールできない奴らにはウンザリしていた。
大学に入ってからは、あからさまな性差別をされることはなくなったが、それでも、無難なβが良かった、と折に触れて強く思う事が多々あった。
αに生まれて良かったと、素直に思えるようになったのは、二年前だ。
そう、圭人と出会ってからだ。
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