6 (柾視点)

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6 (柾視点)

 二年前の春――桜が散り始めた頃だった。  新宿の某ホテルのラウンジで、ITベンチャー企業の若き経営者と、ビジネス誌の編集者が対談を行っていた。そこに同席し、柾は写真を撮っていた。本当は柾の先輩の仕事だったが、「おまえαだもんな。俺よりもずっと優れた写真が撮れるに決まってるし、行ってきてよ」  休日の早朝に、ピンチヒッターをやれと電話が掛かってきたのだ。断られるなんて思ってもいないような、傲慢な声だった。  柾も実際断りはしなかった。どんな仕事も自分の今後に役立つだろう。早く沢山経験を積んで、フリーランスに転向したいと考えていた頃だ。  対談は三十分で終わった。経営者は多忙で、隙間時間にインタビューに応えていたのだ。そう柾と変わらない年齢の経営者は、やはりαで、エリート大学を卒業していた。  ――同じαでも、ランクがあるんだよな。  周りは「α」をいっしょくたにして見る人が多い。会社の上司、先輩は、αは仕事ができて当たり前だと思っている。仕事の出来が良ければ「αだもんな」で終わるし、出来が悪ければ「αなのになにやってるんだ」と怒鳴られる。βやΩが失敗したときよりも厳しい。  生まれたときからエリート街道を約束されているαは、楽で安定した人生かもしれないが、自分のような庶民のαは、割を食う。そんな気がしてならない。 「次の仕事がありますので、失礼します」  丁寧に言って、でも柾の顔なんて一瞥もせずに、経営者はホテルのエントランスドアへと颯爽と歩いていく。スマホを耳に当てながら。編集者も慌ただしくラウンジから出て行く。  柾はカメラやレフ版をリュックに仕舞い、自分も退散しようと思った――その時。  鼻腔をくすぐる甘い匂いが漂ってきた。  ――なんだ、この匂い。  ジン、と脳に響くような――かぐわしい花の香り。発情期のΩがまき散らすような、強力で無理やり煽るような臭いとは違っていた。  もっと嗅いでいたい、どこから漂ってくる?  ラウンジの中と外、両方を見渡すと、エントランスドアからこちらに向かって歩いてくる男が視界に入った。彼は遠目でもわかるような上質なスーツを着ている。が、ワイシャツやネクタイとは似合わないような、黒皮のチョーカーを首に巻いていた。一歩二歩と彼が距離を縮めてくるうちに、男の細かな容姿の情報が入ってくる。  彼は類まれな美貌を持っていた。色白の小さい顔、双眸はくっきりとした二重。濃く長い睫毛が、下瞼に影を落としている。鼻筋は通り、唇は桜の花びらのように美しく可憐だった。体は細身で肩幅は狭いが、身長は百七十あるだろう。  二人の距離が五メートルまで縮まったとき、柾の胸はどくどくと速い鼓動を刻み、下腹は熱く脈打っていた。目の前の男が放つ甘い花の匂に頭と四肢はしびれて、一つのことしか考えられなくなる。  ――抱きたい。俺だけのものにしたい。  柾から一歩、彼に近付く。  相手は一瞬、後ずさろうとしたが、その場に留まった。  二人は金縛りにあったように立ち尽くしたまま、お互いを凝視した。  彼の色白い頬は血色が良くなり、半開きになった口からはピンク色の舌が覗いた。喘ぐように肩で息をしている。 「あ――俺……」  その、吐息混じりの中音の声を聞いたとたん、歯止めがなくなった。  気がついたときには、ホテルの一室に入っていた。相手の男を裸に剥き、ベッドに押し倒した。彼の後孔は何もしていないのに透明な液でぐっしょりと濡れていた。花の香りがぶわっと沸き起こり、欲情に体が支配された。前戯を施す余裕もなく、正常位で彼を犯した。  事が終わったあと、冷静になった二人は自己紹介をしてから、今後のことを話し合った。 「俺、こんなことは初めてで」  内川圭人、と名乗ったばかりの男は、ベッドから出て、脱ぎ捨ててあったシャツを羽織った。そのまま気だるそうな素振りで、革製の鞄から錠剤を取り出した。ホテルに備え付けられたグラスに水道の水を注ぎ、薬を飲んだ。 「それ――」 「アフターピルだよ。中に出しただろ?」 「ああ……ごめん」 「いいよ。お互いゴム着けようなんて余裕なかったし」 「俺も、こんなこと初めてだった」  あれは何だったんだろう、と考える。でも、理屈で説明できるものではない。あれこそ、本能だった。経験したことのない、逆らえない力で体も心も支配された。まるで、永久磁石のような。 「もしかしたら俺たち、運命の番ってやつかもしれないな」  運命の番――そんなフレーズが、自分の口から出てくるとは。  今まで一度も、運命の番という存在を信じたことなんてなかったのに。 「運命の番……」  圭人が立ち竦んだまま、ベッドに座っている柾を見つめている。ややあってから、「そうかもね。俺、発情期が終わったばっかりだったんだ」と呟いた。  その日から二人は付き合うことに決めた。当たり前な決断。付き合わない選択は最初からなかった、というのが正しい。  二人は結婚もしていなかったし、恋人もいなかった。  圭人は今まで誰とも付き合ったことがないしセックスしたこともなかった。発情期は抑制剤でしのいでいたという。柾は高校、大学時代にΩの男や女と付き合っていたことがある。が、理性を失うほど欲情し、目もくらむほどの快感を経験したのは、圭人とのセックスが初めてだった。  後から聞いた話だが、あの日圭人は、αの男とお見合いをするためにホテルを訪れていた。圭人の叔母に強く勧められて断ることができなかったのだそうだ。  叔母からは、見合いのバックレを非難されて怒られてと、大変だったらしい。  柾が潰した見合いの相手は、一流企業の社長の次男。滅多にない好物件なのに、と。  圭人の叔母には申し訳ないが、あの日あの瞬間に出会ったのは、やはり運命だったのだと思う。  圭人を大事にしよう、と出会った日に決意した。  俺たちは運命の番なのだから。
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