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9 (柾視点)
六月八日。午後六時過ぎ。
ブロアーでレンズの埃を飛ばしていた時、スマホが鳴った。
タイミングが悪い――と思いつつも、柾はブロアーを机に置き、少し手を伸ばしてスマホを取った。発信元は山田。一応仕事関係者。
「ああ柾、どうせ暇だよな? 今から出て来いよ」
けっこう失礼な言われよう。否定できない自分が情けない。
「なに? 撮影?」
若干苛つきながら答えると、「うん、ライブのレポート」と返ってくる。
「何時に着けば良い?」
「七時半からスタートだから、その十五分前ぐらい。渋谷の『爽音』な。入り口前」
「わかった」
『爽音』になら、何回か行ったことがある。収容人数は百人程度で、立ち見オンリーの小さいライブハウスだ。
金の話はせずに電話を切る。
どうせ撮影の報酬は見込めない。
山田はフリーのライターだ。音楽情報サイトでライブのレポートを掲載しているが、たいした報酬はない、と前にボヤいていたことがある。
それでもいい。どこでチャンスが転がっているか分からない。少なくとも、部屋でカメラの掃除をしているよりは可能性がある。
渋谷の『爽音』――一昨日行った『カフェ フラット』から近距離にあるライブハウスだ。大崎から渋谷までは山手線で十五分そこらだ。余裕で間に合う。
色あせたグリーンのTシャツを脱ぎ捨て、比較的新しい黒いシャツに着替える。履いていたブルージーンズはそのまま。
待ち合わせの時間よりニ十分も早く、柾は『爽音』に着いた。道玄坂を信号三つ分登って右折するとある、こぢんまりとした箱だ。
入り口付近には、人待ちの若い女性が数組立っている。そのなかに山田の姿はない。と、隣のコンビニの前に、彼がいた。おにぎりを立ち食いしている。
「おー納藤」
こっちこっち、と山田が手を振ってくる。柾は手を挙げて、彼の元に行く。
「『トリガー』っていうインディーズ二年目のバンドなんだけどさ、直近の曲がなかなか良くて人気急上昇中なんだ」
山田が挨拶もなしに、説明を始める。
柾は渡されたフライヤーを見た。バンドメンバー四人の集合写真が載っている。ヴォーカル、ギター、ベース、ドラムのよくある構成。服装は皆、シャツとジーンズでラフな格好だ。
「知らないバンドだな。ロック系?」
「うん、ロックだな。ライブ中は耳栓した方が良いよ。持ってきた?」
「あ、忘れた」
「なに忘れてんの。ここの音響、あんま良くないぞ」
「グッズ売り場で買うよ」
山田がおにぎりを食べ終えたので、二人は『爽音』のドアを開けエントランスフロアに入った。なかなかの人だかり。カウンター横のグッズ売り場には列ができていた。客層は十代から二十代の女性、といったところか。
カウンターに行き、山田がチケットを二枚購入した。
「ほんと、人気出てきたなあ」
感心したように山田が言う。
「ライブが終わったらメンバーにインタビューする予定なんだ。アポも取ってる。付き合ってよ」
「良いけど。報酬は?」
一応聞いてみる。ライブ後のインタビューまで撮影、となると結構な時間拘束だ。
「四千円」
「すくなっ」
わざと非難の目で山田を見る。
「俺だって、記事買い叩かれてるんだよ」
「それにしたって」
「じゃあ、これ終わったら飲みに行こう。奢るから」
「四千円より高くつくかもな」
「言えてる!」
ライブ前で山田のテンションは高くなっているようだ。柾もつられた。
「あ、耳栓買えよ」
山田に頷きながら、グッズ売り場を見る。サイリウムやタオル、ブロマイドなどが所狭しと並んでいる中に、耳栓もあった。だが。
――高いな。二千円?
百均で売っていそうな黄色いソフトタイプの耳栓だ。『トリガー』と印字されたカラフルな缶のケースが付いているから高いのだろうが、それにしても、ぼったくりレベルだ。
買うのを躊躇してしまう。
「ほら、買えって。もう開場してる。良い場所とらないと」
山田が急かしてくる。グッズ売り場に並んでいる人はもういない。
仕方なくジーンズのポケットから財布を取り出したときだった。
「納藤さん」
背後から呼ばれ、柾は反射的に振り返る。そこには結城実紀が立っていた。
「やっぱり納藤さんだ。こんばんは」
圭人より少し低い声。すっと鼓膜に優しく染み込むような――一度聞いたら忘れない声だと思った。一昨日会ったときにも感じたことだが。
「こんばんは、結城さん」
挨拶を返し、次に何を言おうか考える。
――いや、話している場合じゃない。
仕事でここに来たのだ。
「ちょっと俺、耳栓を買わないと」
「あ、そうなの? 俺、持ってるけど」
「え?」
もう一度、後ろを振り返った。
「あげるよ」
結城がにこっと笑って、パッケージされた新品の耳栓を差し出してくる。ついうっかり受け取ってしまう。
パッケージには『イヤープロテクター』の文字。シリコーン製の、凹凸のある三角の形状。カプセルっぽいシルバーのケース付き。見るからに高そうだ。
「いや、貰うのは悪いよ」
折り畳み財部を広げ、「いくら払えば良い?」と問うも、また「あげる」と言われてしまう。
「あげるから、また来てね」
「え?」
聞き返すと、実紀はいたずらっぽく笑って、メインフロアに通ずるドアを開け、中に入っていく。
「今の人、知り合いか」
山田が声をかけてくる。
「ああ」
「ここのスタッフか?」
「さあ」
チケットを買って中に入ったようだし、バックステージパスを首に掛けていなかった。
「けっこうイケメンだな」
「そう、だな」
結城の顔を浮かべながら、確かにそうだな、と思う。
圭人とは違うタイプだが、整った顔立ちをしている。吊り上がった眉も、くっきりした二重も、意志の強そうな大きな目も、自己主張が強そうで性格がきつそうに見えるが、さっきみたいに笑うと、急に柔らかい印象になる。
ライブが好きでよく行く、と結城から聞いてはいたが。さっそくライブハウスで再会するとは。
メインフロアに入ると、開場したばかりなのに人の熱気で溢れかえっていた。室温が一度か二度上がっている気がした。収容人数の八割は埋まっているかもしれない。軽く腕を回したら隣に立っている人にぶつかるぐらいの人口密度。
ドリンクカウンターには列ができている。
ステージでは、二人のスタッフが設備の最終チェックを行っている。
結城の姿を探すが、柾が見た限り、彼はどこにもいなかった。
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