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1
地面を埋め尽くしていた桜の花びらが姿を消し、草木の緑が一層鮮やかになってきた。涼しい風が心地よい初夏の頃。
抜けるように青い空に、束になった電線が五線譜のような模様を作る。
栄えた町並みでは、木造に瓦を載せた建物の数が、のっぺりとしたコンクリート建築の数についに負けてはじめていた。
大道りに隙間なく軒を連ねる流行りの店たちは、洒落た片仮名表記の店名を看板に躍らせる。
瓦屋根の建築物の壁を一面レンガに飾らせてみたり、蔵作りの家屋に大きな薄いガラスをはめ込んだみたり。時代の最先端を走る都のこの町では、様々な文化がこれからの可能性を見極めようと、あらゆる方向に手足をのばしているようだった。
そんなにぎやかな通りの中を、更なる中心部に向かって、ある一人の青年が雪駄の足を進めていく。
袴姿の襟元に白いスタンドカラーを覗かせ、かぶった帽子の下からは丸い眼鏡の銀縁が光る。
彼は今日、ある女性と会うことになっていた。
視線の先に見える待ち合わせ場所の店の軒先には、既にその女性の姿があった。
彼女は人ごみの中に男の姿を見つけると、笑顔で手を振り、待ちきれなかったかのように駆け寄ってくる。
「すみません。待たせましたか」
「ふふっ。ちょっとだけね」
そう楽しそうにほほえむ彼女は、女と呼ぶにはまだあどけなく、少女と呼ぶには大人びて見える。桃色の着物に濃紺の袴を合わせ、足元は流行りの編み上げのショートブーツ。下ろされた長い髪には、桃色のリボンが頭の後ろでかわいらしく蝶結びにされていた。
「いつも思うのですが、こんなところで待ち合わせをして顔をさされたりしないんですか?」
彼の言葉を彼女は笑い飛ばす。
「さされるわけないじゃない。私があの『椿月(ツバキ)』だって、誰が見たって気づきっこないわよ」
この、少女にも大人にも見える女性・椿月の職業は、女優。この町の中でも有名な老舗の劇場で、若手ながら実力ある舞台女優として活躍している。
演技の実力から観客の支持もあり、若手にしては人気ある女優ではあるが、彼女が自ら言うように、町中では決して人に声をかけられることはない。
その理由は、彼女が演じる役柄にあった。
彼女の役者としての真骨頂は、悪女の役。つやめくまでに濃い口紅を引いて、妖艶にほほえむ。体の線がくっきり出る西洋ドレスに身を包み、なまめかしく脚を組む。主役たちに意地悪く接し、いやみを言い、男を翻弄し、悪だくみをする。終幕に居合わせることはなく、追い出されるか自ら去っていく。
主役として光が当たることはないが、物語に刺激を加える香辛料のような存在。
このように実際の彼女からはかなりかけ離れた役柄で、観客たちから支持を受けていた。それも彼女の演技力と努力の賜物なわけだが、あまりにきつい舞台メイクと派手な衣装、奇抜なウィッグ。それと、その支度の姿を劇場内でさえ誰にも見せないことから、女優・椿月の本当の姿を知るものはほとんどいないという。
その本来の彼女を知る数少ない人間の一人が、この男である。
以前、ある人気作家の弟子兼助手として先生の手伝いをしていた彼は、ある事件に巻き込まれたことから彼女と知り合い、今もこうして親交が続いている。
彼は彼女の舞台を月に一度くらいの頻度で見に行く。公演後彼女の楽屋を訪ねて、その時に二人で会う日を決める。それが習慣のようになっていた。
一般人である彼が楽屋まで通してもらうことができるのは、前の事件で劇場の館長と面識があるからだ。
館長は「事件で世話になった君からお金を取るのは忍びない」と言うし、椿月も「知り合いだからタダで入れてあげるのに」と言ったのだけれど、見栄もあり何となく断ってしまった。そののち、劇場に通う度に出て行く金額を目の当たりにし、遠慮したことを後悔したのは言うまでもない。
二人はこうして会うと、いつも何をするでもなく町並みをぶらりと歩く。何を見るでもなく、何かを買う目的や行く場所なども特にない。その分、彼女はぶらぶら歩きながらよくお喋りをしたし、彼にとっても〝どこかに行く〟というより〝二人で時間を共有する〟ことが一番の目的なので、まったく構わなかった。
そして通りや広場を歩ききると、大衆向けの喫茶店で珈琲を一杯ずつ飲む。そこでまた、取り留めのない話をする。
会話の大概は、彼女が質問をして彼が答える。彼女が話して、彼が聞く。話し好きの彼女と口下手な彼のやりとりは毎回そんな感じだった。それでも椿月はにこにこと楽しそうだったし、彼もそのささやかな時間を心地よいものと感じていた。
二人は今日も、〝つかず離れず〟の距離だ。
こうして定期的に二人で出かけているけれど、別に交際しているというわけではない。
彼は、自分が彼女に惹かれていることを自覚している。事件を通して彼女と知り合い、会話を重ねていくうちに、「この人ともう少し長く一緒にいられたらいいのに」と思うようになっていた。
恐らくこういうのを恋愛感情と言うのだろうが、男はあまりにそういった経験に乏しく、初めてのそれをどう扱えばいいのかよく分からないようだった。
一度、勇気を出して彼女に好意を伝えるような告白まがいのことを言ったけれど、あれ以来二人の間にそういう話は何もない。
自分の言葉に手を握ってくれたということは、嫌われてはいないと思うのだが。彼は彼女が自分をどう思っているのかよく分からないままだ。
今日もまた、いつものように町をぶらついたあと、喫茶店に入った。
大きめのソファチェアに一人ずつ、白いクロスのかかった丸テーブルを挟み向かう合うようにして座る。頼むのはやはり珈琲を一杯ずつ。
椿月は早速口を開く。
「小説の調子はどうなの?」
「まあまあ、です」
「まあまあって?」
「一応手は動いてはいるんですが、それが世の中に評価されるかは分かりませんから、何とも言えません」
ふうん、と彼の言葉を考えるようにしながら、椿月は届いたカップにミルクと砂糖をたっぷり加える。
はたから見ると、どう見ても年下にしか見えない彼女に敬語を使っているのだから、なんとも奇妙に映ることだろう。初めて出会った女優姿の時の彼女があまりに大人びて見えたから、彼は最初に接したように敬語で話してしまうのである。
そんなことはまったく気にも留めていない様子の彼女。薄紅色の唇を小さくとがらせて、彼に言う。
「あなたが『椿月さんに読ませる自信がある作品が書けるまで読まないでください』っていうから、ちゃんと約束を守って読まないでいてあげてるんだからね。せっかくのデビュー作」
自身の先生が思わぬ形でいなくなったしまった彼だったが、その後弟子時代に知り合った出版社から声をかけられ、奇跡的に作家として活動し始めることができた。
ただ、どうも知り合いに自分の小説を読まれるのは気恥ずかしいようで、彼は数少ない知人友人たちに対しても、自分が作家として活動しはじめたことについてはほとんど黙っている。
特に椿月に自分の小説を読まれるのは、小説が自分の心や哲学を反映したものであるがゆえに、彼にはどうにも抵抗があった。いつまでもそんなことを言っているわけにはいかないし、その抵抗を払拭できるくらい〝彼女に読んでほしい〟と思える作品が書けたら、とは思ってはいるのだが。
彼女の読書に制約をかけてしまうことと、まだ期待に応えられないことに対して「すみません」と口にする。
すると不意に、彼女は「そういえば」と何かを思い出したようだ。
「そうそう。劇場の知り合いにあなたの小説を読んだっていう人がいたからね、感想訊いてみたの。面白かったって言ってたわよ」
にこっと笑って、椿月はまるで自分のことのように嬉しそうにそう言う。
表情の変化に乏しい顔の下で、嬉しいような気恥ずかしいような感情が入り混じり、男は心臓の辺りがむずがゆくなる。
そんな二人のささやかな時間に、初めて割り込む声があった。
「──椿月?」
絶対に顔をさされるはずのない彼女の名前を呼ぶ声。
二人が目を向けた先には、一人の若い男性が立っていた。
すらっとした細身のスラックスに長い脚を包み、ベストから洒落たスカーフを覗かせている。ふわふわとした髪は自然な形でセットされており、通った鼻梁に垂れ目で釣り眉の顔は、常人離れした整い方をしていた。
「あら、こんなところで会うなんて珍しいわね」
思わぬ遭遇に目を丸くしている顔の整った男性に、椿月は事もなげに言葉を返す。二人は知り合いなのだろう。
その男性は、当然椿月の連れに視線を向ける。
「……そちらは? 椿月のファンの方かい?」
視線を向けられた彼は、なんと返したらよいのか迷った。
確かに自分は舞台に立つ椿月に活躍してほしいと思ってはいるが、ただ〝ファン〟と一緒くたにされると何となくモヤモヤする。
彼は普段から、自分が駆け出しの小説家であることは口外しないように頼んであるので、椿月は詳しい説明を避け、「まあそんな感じよ」と適当に流した。
彼は男性からのじろじろと値踏みするような視線を受けて、
「あなたは?」
と問う。
すると男性はまた目を丸くし、大げさにかぶりを振ってみせる。
「参ったね。俺のことを知らないとは」
ピンと来ていない様子の彼に、椿月がそっと耳打ちした。
「あなたが先週見に来た舞台の主演俳優よ?」
どうして覚えてないのよ、と笑いつつも少し呆れた様子である。
男性は改まって、芝居がかった優雅なお辞儀をしながら挨拶をする。
「神矢 辰巳(カミヤ タツミ)と申します。以後お見知りおきを」
その軽やかな身のこなしと自信をたたえた表情は、見る女性を一瞬で虜にしそうなものだった。
だが、男は神矢に目の前で名乗られても、なかなか記憶と結びつかなかった。舞台と普段では化粧や衣装で顔も雰囲気も違うだろうし、何より彼はあまり人に興味がなく、他人の特徴を覚えるのは得意なほうではない。
まあ、舞台では気づくと椿月にばかり注目してしまっている、ということも一因ではあるが。
神矢は椿月に親しげに語りかける。
「なぁ椿月。せっかく町に出てきてるなら、俺のいきつけの店でも行こうぜ。うまいイタリア料理を食べさせる店があるんだ」
白い歯をのぞかせ、彼の目の前で驚くほどスマートに椿月を誘ってみせる神矢。
だが、椿月はそれを軽くあしらう。
「今度ね。今はダメ」
椿月、椿月と彼女をやたら呼びつけにする神矢に対し、男は不快感を覚えたが、珈琲と一緒に喉の奥に押し込む。
神矢は仕方ないという風に肩をすくめてから、ちらと二人のテーブルに目をやった。珈琲が二杯だけ置かれたテーブル。
別に特別な意図はないのかもしれないが、神矢の口元に常に浮かべられる薄い笑みから、何となくバカにされているように男は感じた。被害妄想なのかもしれないが、まるで、この程度のお前なんて椿月には相応しくないよ、とでも言われているかのような。
主役を張るような人気俳優には、あらゆる面で太刀打ちできるわけがない。神矢の言うような飯屋などに行けば、一晩で一体何ヶ月分の食費が飛ぶだろう、と彼は思う。
彼がそんなことを心の中で考えている時、ふいに神矢が椿月に耳打ちをした。声量を落としてはいるが、男にも聞こえてくる。
「つーか、あの件は平気なのか?」
「いいの。今は大丈夫だから、放っておいて」
彼の存在を気にするようにひそめられた神矢の声に、椿月は、ここで言わないでよ、とばかりに責めるような視線を向ける。
中途半端に聞こえてしまった分、男は何の話をしているのか気になった。それでも、内緒話に踏み込む図々しさも、勇気も、持ち合わせていなかった。
神矢が彼の前で妙なことを口走らないようにするためか、椿月は早々に神矢を追い払った。渋々といった感じで神矢が店を出ると、椿月はまたいつものように彼に向き直る。
「ごめんなさいね。騒がしい人で」
劇場内ではともかく、町中で彼女の知り合いに遭遇するのは初めてのことだった。しかもそれは、彼女の本当の姿を知っているからこそ声をかけられるわけで。
男は気になっていたことを尋ねる。
「今の人とは、親しいんですか?」
彼からの質問に、意外そうに「え?」と小首をかしげたあと、彼女はこう説明した。
「うーん、そうねぇ。辰巳とはこの劇場でやるようになった時期がちょうど同じくらいだったから、割とね。同期みたいなものよ」
辰巳。
彼女が男の名を呼びつけで口にするのを初めて聞いた。話の内容よりも、彼の関心はそこに集中してしまう。
「劇場の館長とあなたの他にちゃんと私の正体を知ってるのって、あとは辰巳くらいじゃないかしら」
そう話してから返事を待つも反応を示さない彼に、椿月は「聞いてる?」と、まばたきで長いまつげをパサパサさせながら顔をのぞき込む。
「あ、はい……聞いてます」
椿月が自分と同じような若い男性を下の名で呼びつけにするのを聞いて、なんとなく胸がぎゅっとなり、ザワザワと落ち着かなくなる。
そういえば、自分は彼女に名前を呼んでもらった記憶がない。もっぱら〝あなた〟とか。もちろん彼女は自分の名前をちゃんと知っているのだが。
よく考えると、彼女は稽古や舞台で神矢のような見目の優れた役者らといつも一緒にいて、好きだとか嫌いだとかそういう演技を繰り返しているわけで。そうしていることで本当に相手のことを好きになったりすることもあったりするのだろうか。
男は今までそんなことなど考えたこともなかったが、一度思いついてしまうとその思考は水に落としたインクのように頭の中に広がってしまう。
視界に入る、壁にはめ込めれた大きな窓ガラスに、自分の姿が映っている。
着古した着物と袴。勉学を想起させるような野暮ったい眼鏡。取り立てて魅力もない自分の見てくれが今更どうにかなるとは思っていないが、神矢と背格好はさほど変わらないはずなのに、この垢抜けなさの違いは一体何なのだろうと思ってしまう。
それと、神矢が小声で耳打ちしていた「〝あの件〟は平気なのか?」とは何だろう。あまり聞かれたくないからこそ声をひそめたのだろうが、余計に気になる。
「──ぇ……ねぇ、聞いてるの?」
「あ。すみません、聞いてませんでした……」
気づけば椿月が、不満げに軽くあごを引いて見つめてきていた。彼が一人思考の迷路に迷い込んでいる間も、何かしら一生懸命しゃべっていたようだ。
「今日のあなたはなんだかやたらぼーっとしてるわね。いつもはそんなことないのに」
椿月は呆れたようにわざとらしくため息をついてみせる。
この後も色々話したはずなのだが、彼の相づちはどこか上の空で、最終的には「具合でも悪いの?」と体調を心配される始末だった。
こうして今日も二人は、市街をぶらりと歩き、お茶をし、日が暮れる前には帰る。
自分たちの関係は一体何なのだろう。自分の存在は彼女にとってどういうものなのだろう。
整理のつかない思考を抱えたまま、男は別方向に帰っていく彼女を見送る。彼女は一度振り返ってふふっと笑い、「またね!」と手を振ってきた。彼はそんな彼女に軽く頭を下げ、彼女の姿が人ごみに見えなくなると、自身も帰路についた。
今日も、つかず離れずだ。
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