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あたしの夢にはいつも白い手が出て来る。
モノトーンの背景に溶け込む、きれいで繊細な手。
長くてしなやかな指先の、きちっと切り揃えられた爪は桜色。女性の手みたいにきれい、と、いつも思うから、持ち主はきっと男性なんだろう。
姿も名前も知ってるはずなんだけれど、夢のなかで記憶は塞がれて、もどかしいほどに焦点を結ばない。
あたしはこの手が大好き。
幻想のなかで戯れるこの手を追いかけて、あたしはあたしの見えない手を伸ばすけど、掴むことは決してできない。そうして目を醒ましてしまう------幸せと、ひと握りのせつなさの、余韻を残して。
危うく張り詰めた弦の上を、白い手が滑る。それはさながら風に陶酔する蝶の羽にも似て、目も綾な光景。
ジェニングス------
そうよ、彼だわ。
あたしの愛しいジェニングス・ハート。
“空の魔女”のベーシスト。ライヴ・ハウスの一番前で、あたしは毎晩うっとりと彼を眺めた。
周りのキッズはギターに拳を突き上げ、ヴォーカルに声を合わせ、タイコのビートに身体を揺らすけど、あたしには彼しか見えない。ステージの端っこでライトのかけらを浴びて、幸せそうにベースと戯れる、素敵なジェニングス。
あたしはどれだけ愛したろう。
とりわけあの手に惹かれたんだった。
軽やかに返す手首の裡側をつたう静脈の青、やさしく腕をつつむ産毛の金。白いライトに浮かび上がるそれは、すらりとした立ち姿より長い金髪より、輝く緑の瞳より、はるかに美しいものだった。
あたしは夢のなかでため息をつく。
あの手に抱かれることを、決して望んだわけじゃない。かなうはずのない願いはいずれ心の重荷になるから。
見ているだけで幸せだったわ。細い手首の、長い指の、しなやかに動くさま------。
悪夢は深夜のTV画面のよう。ざらついたノイズをくぐって、黒い染がちらつく。嵐の空、翼を折った鴉の影を見るように、あたしは不安になる。
これは前兆。狂気の先触れ。あたしにはそれがわかっている。
広がる不安に背中を突かれるように唐突に焦点が合って、ちらつくものの
正体をあたしは知った。
リスト・バンド-------
ジェニングスの両手首をきつく巻き込んだ、暴力的な黒い革。
なぜなの?
なぜ彼は------……
透ける静脈の青も、ライトに浮かび上がる産毛の金も、もう見えない。黒い革から異質に突き出た白い指は、まるで不吉な予言のように恐ろしく見えた。
悪夢は広がる。とめどもなく深くなる。あたしは眠ることさえ怖くなるけれど、目覚めているのもまた------…
別世界の恋人、高嶺の華のジェニングスに、あろうことかマーケットのレジの前で出逢ってしまった。午前零時、奇跡が頭をもたげる時間。彼はライヴ・ハウスからの帰り道、あたしはお店に出る途中だった。
ついさっきまでうっとりと見つめていた彼が、目の前にいる。ロックン・ロールの懐から滑り降りた彼は、金の髪を背中に垂らした、ごく普通の青年に見えた。
あたしは吸い寄せられるように彼の手を見た。ミラクルを生み出す白い手が下げたカゴに、形のいい赤いリンゴとパリパリのグリーンが収まっている。それと、ミネラルウォーターの青い瓶。左手首の骨の片一方に引っかかった金の鎖が危ういオブジェを造り上げていて、とてもよく似合っていた。
あたしは思わず彼の名を呼んだ。ステージを降りたあとの彼のことなどなにひとつ知らないのだと気づいたのは、その瞬間だった。あたしを見返す顔は苛立っているかも知れない。不審そうに眉をひそめているかも。
でも、振り向いた彼は笑顔だった。
あたしたちは顔見知りになり、親しく口をきくようになり、友達になった。いつものライヴ・ハウスのいつもの場所にいるあたしに、彼はステージの上から笑いかける。陶酔のあいまの、暖かでたしかな交錯。
あたしは彼に自分の気持ちを伝えなかった。最初に彼の手に在るマジックを話して以来、彼はひどく面白がって、あたしのセンスを気に入ったようだったから。すくなくとも、その辺のグルーピーとは分けてくれているようだったから。
あたしは超然としていなければならなかった。彼に恋人がいるかどうか尋ねたり、彼の語りたがること以外に興味を見せたりしてはならなかった。
どのみち、あたしの愛はまだ横たわる櫂のようなものだった。心の大波を押し分けてたぐり寄せたいと切望するほどには、彼を知ってはいなかったのだ------まだ。
ジェニー、と呼ぶと、彼はいつでも左の肩越しに振り返る。その所作が、あたしは好き。長い金髪がふわりと背中に遊び、軽くあたしを睨んで、それから笑い出す。これは彼とあたしのささやかなセレモニー。笑いから軽口がはじまり、彼はその日の調子や心にあることをたくさん話してくれる。思いつくままに。
彼は本当は、その女性名で呼ばれることが嫌いなのだ。あたしは時々わざとそう呼んでからかったけれど------普段はジェンと呼んでいる------彼が拒むことはなかった。
あたしがひと回りも歳上なせいもあったろうし、信頼関係がすっかり出来上がっていたせいもあったろう。
音楽のことを話すとき、彼の緑の目は若者らしく熱っぽく、きらきらと輝いた。それから、他のメンバーとした喧嘩(彼はなかなか頑固なのだ)、ガールフレンドに振られたこと、グラスで体験したバッド・トリップ(ほかのドラッグはやっていないと言った)、かたちのない不安、からだのなかに自然に生まれて来る希望の成分。この歳ごろの若者が体験する事柄や感情は、ひとつ残らず彼のなかに存在していた。
手だけが、いつでも特別だった。ほっそりした彼の手、華奢で繊細な彼の指は、オフ・ステージでもいともしなやかに生き生きと動き、ときとして言葉より雄弁に心の裡を物語った。
黒のリスト・バンドなど彼には似合わない---------
やさしいジェニングス。
やさしくて、陽気で、ハンサムで、繊細かと思えば妙にしたたかな、時代の申し子。
あたしのいとしいジェニングス・ハート。
なにひとつ知らなくとも愛することはできる。それはそれで自己愛のようなものかも知れない。彼の手が創り出した、あたしのなかの幻想。研ぎ澄まされ、あたし自身も知らないあたしの深奥に向かって膨らんでゆく、あたしの感覚。そんなものなのかも。
けれども幻想が幻想でなくなるとき、薄皮を剥がすように生身の彼の姿があらわになってゆくとき------あたしの想いもまた姿を変える。
親しくなどならなければよかった。ライヴ・ハウスのいつもの席で、謎めいて妖しい彼の手の織り成すミラクルにうっとりと酔い痴れて、見ているだけの方がよかった。
知ってしまえば、ガラスの愛に血が通う。そうなれば相手が……ほしくなる。
予想しなかったわけではなかったが-------…
想いを告げたときの彼の反応が怖かった。なんのてらいもなくあたしに吐露する胸の裡、向けて来るくつろいだまなざし、それらが喪われて、代わりに、当惑したぎこちなさがあたしたちの関係にヒビを入れるのが怖かった。彼は、あたしが彼のファンであることは当然知っていたが、恋に落ちていたとは思いもよらないに違いない。
あたしは懸命に激情を抑えた。目を向けることさえつらいから、逢わずにいようかと決意しかけたこともあった。でも------離れることを思っただけで心が軋んだ。
それに、あたしはいまでは彼の唯一の歳上の友人なのだ。悩みを聞いたり、苛立ちを鎮めたり、相槌を打ってやることのできる貴重な存在。聞き上手、と言った彼の言葉があたしの認識を代弁しているようで、またつらかった。なにも知らない彼は仔猫のようにあたしの部屋に居つき、少しずつ彼の持ち物が増えていった。
あたしがだんだん醜くなってゆくのに、彼は気づかない。一生、気づくことはない。恋を打ち明ける勇気も、離れるつよさもないなら、あたしはどうしたらいいのだろう------‥‥
黒のリスト・バンドなど似合わないのに------‥‥
あたしのなかには女がいる。
嫉妬深い、鉤爪のような自我を持った女が。
彼が、ほかの女と話しているのを見るだけで、気が狂いそうになる。彼がほかの女に触れると思うだけで、心が凍りつく。
あたしは世界中の女を憎んでる。女というだけで彼を手に入れることができる、から‥…。心だけでなく身体もまた女だったら、あたしだって彼に抱かれていたわ。
あたしのからだは神様が気紛れに造られた。そうしてあたしの道とジェニングスの道を交錯させた。悲劇にしても喜劇にしても、たぶん運命だったのだろう。
あたしは眠っている彼の手首を切った。
あたしの罪はジェニングスの両手首にそっくり残って消えないわ。
夜毎の悪夢も決して薄れることがない。
白い手の舞にはじまる夢はいつもおなじ経緯で、あたしは途中で耐え切れなくなって叫び出す。すると決まって彼がそっと揺り起こしてくれる。
おかしな男だわ。ゲイでもないのにあたしとの同居を決め込んだ。いつ、今度こそ本当に殺されるか知れやしないのに。
彼はあたしを一度も責めなかった。そう、ナイフの衝撃に目を覚ましたあの瞬間でさえ。彼は手首の傷口と、シーツを染め上げた夥しい自分の血と、あたしの握ったナイフと、最後にあたしの顔をじっと見つめた。恐れや怒りはそこにはなく、ただひどく疲れたような、従順な哀しみの表情を浮かべていた。あたしは彼がのろのろと起き上がり、血まみれの指で頬に触れて来るまで、自分が泣いていることに気づかなかった‥…。
流れた血は生命を奪うほどのものではなかったけれど、彼はもうリスト・バンドなしにプレイすることはできない。もうすこし深ければ二度とプレイできなくなるところだった。
ロッカーにリスト・バンドはつきものだなんて、こともなげに微笑わないで。あなたの手にそんなものは似合わない。なのに、あたしがそんなふうにした。あんなに愛したあの陽気に躍る白い手を、あたしが壊してしまった。しなやかに優雅な彼の手は、今はオフ・ステージでさえ黒い怪物に鎧われている。
“いいんだよ。もういいんだよ、ユージン”
やさしいジェニングス。
あたしという存在を失いたくないからと、彼は身体と生命の両方をあっさりあたしに委ねてしまったけれど、やさしさは時として残酷なもの。あたしは彼に触れることもできないわ。
“空の魔女”のヴォーカルが脱退して、ジェニングスはあろうことかあたしに後任をプッシュして来た。どこまでもひとの気持ちのわからない男ね。それはあたしは歌姫(ヴィーナス)だけれど……ジャズが商売でも気紛れにロックも唄うけれど、あたしはこれ以上彼と行動を共にするなんてまっぴら。ましてや彼のそばでラヴ・ソングを唄うなんて、考えただけで胸が潰れそうになるわ。
だからあたしは唄わない------彼のためには。
完
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