クチナシの咲く屋敷

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 甘い香り。魅惑の香り。  その香りに誘われて扉を開けると、そこは煌びやかな装飾の施された、まるで中世ヨーロッパの貴族の屋敷のような作り。部屋の真ん中にある豪奢なテーブルクロスが敷かれた長いテーブルの上には見ただけで手が込んでいると分かる様々な料理。 『甘い香りに気をつけろ』  この森に入る前に兄に言われた言葉が脳によぎる。頭の中ではその忠告に従えと理性が大声で主張している。しかし、体の方はその甘い香りについていきたいという欲望に忠実に従い、扉に手をかけた。 『森の中の洋館には絶対に足を踏み入れるな』  兄の声を玄関先に落としていく。中に一歩足を踏み入れると、触っていないのに扉が閉まった。まだ引き返せる。なおも忠告する理性を無視して少年は部屋の奥へと足を進めていく。  料理の盛られた皿を手に談笑する貴婦人たち。ワイングラスを手に豪快な笑い声をあげる髭を携えた旦那。ひたすら料理を貪り食っている少年と同じような恰好をした旅人風。優美なソファにゆったりと腰かけて本を読んでいる文学少女。様々な種類の人間がそこにはいた。誰も今入ってきた少年には目もくれない。 『もし中に入ってしまっても朝まで何も食べるな飲むな。香りもなるべく嗅ぐな』  そうだ。そうすればいい。朝までその忠告を守りさえすればいい。だから、この心地の良い空間に朝までいよう。兄の忠告を都合よく解釈した少年は部屋の中をゆっくりと歩き出した。おいしそうな料理のいい匂いに思わず手が伸びそうになる。そういえば朝から何も食べていない。そう気づいた途端に空腹が駄々をこねる子供のように騒ぎ出す。しかし、そこはかろうじて理性の主張を受け入れた。  部屋の奥に置かれているグランドピアノに近づく。一ミリもズレのない完璧な調律で静かに優美な旋律を奏でるそれは、無人だったが前にそんな機械仕掛けの楽器の話を兄から聞いたことがある。きっとそれだ。それに違いない。そう自分を納得させた少年は次に本を読んでいる少女に歩み寄った。  後ろからのぞき込んだ少女の読んでいる本は見たことのない外国の言葉が並んでおり、少年には全く理解不能だった。少女の傍らにある大きな本棚を見るふりをして少女の顔を盗み見ると、恐ろしく綺麗な顔立ちをしている。まるでフランス人形のようだ。座っているのでよくわからなかったが、よく見ると服装もフリルのたくさんついたピンク色のドレスに編み上げのブーツ、頭にはフランス人形がつけているようなヘッドドレスが被されている。  少年は話しかけたい衝動に駆られたが、言葉が通じるか不安だったのでやめておく。いくつか手に取った少女のものと思われる本たちの巻末に書かれている年代が恐ろしく古いこととは全く関係がなく、断じて言葉の壁を心配したからだ。それに、そういう古文書が好きな女の子がいたって不思議ではない。  少年がそうやって屋敷の中を歩いている間にも甘い香りは漂い続けていた。空腹を刺激する料理のいい匂いにも、懐かしい感じのする古本の匂いにも混ざることはなく、微かに、けれど確かな存在感を持って。  ぐるりと部屋を一周し、歩き疲れた少年は部屋の端にある椅子に腰かけた。談笑していると思っていた貴婦人たちの会話はお互いに同じことを繰り返しばかりで全く噛み合っていなかったし、髭の旦那の持ったワイングラスに給仕の者がワインを注いでも、それは一向に増えなかった。料理をむさぼっている少年はいくら食べてもお腹がいっぱいにはならないようだ。  でもそれらのことも、なんだかこの屋敷の中では自然なことなのだと少年には思えた。甘い、魅惑の香り。それを嗅いでいると安心したし、周りの人たちのことも愛おしく思える。なんだか眠くなってきた。 『絶対に寝てはいけない』  ああ、うるさいな。僕は今とても眠いんだ。こんなに心地のいい香りに包まれて眠ることなんてこの先ないかもしれないじゃないか。  少年は頭によぎる兄の声に反発をしたが、それでも心のどこかでまだ理性が生きているようで、目にぐっと力を入れた。 「お疲れのようですね」  ふと柔らかな声が頭上から降ってきて少年は慌てて顔を上げる。 「外は道が険しかったでしょう」  まるで少年に柔らかな毛布でも掛けるかのような声のその女性は優雅に微笑んだ。  洗練、優雅、夢中――。そんな言葉たちがぐるりと頭の中を漂った。確か何かの花の花言葉だったような。その言葉たちと共に兄の心配そうな顔が脳裏によぎる。そんな兄の顔をかき消すかのように、さっきよりも甘い匂いが強くなる。 「ここでは好きなものを好きなだけ食べたり飲んだりしていってくださいね。読みたいものがあればそれも用意しますし、温かな布団だってありますよ」  そうしたら温かな布団を。そう喉元まで出かかった言葉をすんでのところでところで飲み込む。けれど女性には少年の求めているものが伝わったらしい。 「あちらに今ベッドを用意しますから、こちらを飲んでお待ちになって」  そう微笑んだ女性は水の入ったグラスを少年に握らせるとくるりと背を向けて歩いて行った。  少年は手の中のグラスをのぞき込む。  洗練、優雅、夢中――。  ただの水にしか見えない。でも、なぜこんなにも魅力的なのだろう。 『何も食べるな飲むな』  もはや兄の声は少年には届かない。  少年は甘い香りに誘われるように水を一口舐めた。背中でそれを感じた女性はくすりと笑う。そんな女性の笑みに気づくことはもちろんなく、少年は一気に水を飲み干した。  少年は女性が用意してくれたベッドに向かってのろのろと歩き出す。少年は気づかない。途中ですれ違う貴婦人たちのドレスの裾が枯葉のように茶色くなってきていることに。旦那の髭がだんだんと蔦が水を失ったようにカサカサと枯れ始めているいることに。本を持つ少女の爪が紅葉を終えたイチョウの葉のように色が褪せてきていることに。  そして自分の履いているズボンもまた、裾の方からだんだんと枯葉色に染まってきていることに、気づかぬままベッドに潜りこむ。 「ゆっくり、気のすむまでお休みくださいね」  そう言った女性に自分が返事を返したのかも曖昧なくらい眠かった。こんなに気持ちのいい布団は初めてだ。少年はベッドに入るとすぐに寝息を立て始めた。  少年が眠ったのを見届けると女性はくるりと背を向けた。 「ここでは何でも求めているものを最高の質で提供するわ」  奥のキッチンで甘い香りのする水を一杯、グラスに注ぐ。目の高さにグラスを持ち上げると、リビングで思い思いの時を過ごす人々の姿が水に歪んで映る。 「その代わり――」  グラスの淵に軽くキスをする。 「私の代わりに、朽ちてちょうだいね」  美しい純白のクチナシの花に囲まれた森の中の屋敷。その花は決して茶色く朽ちることがなく、純白であり続ける。甘い香りで人々を惹きつけ、虜にする。けれどその屋敷を見かけたら絶対に足を踏み入れてはいけない。踏み入れてしまったら最後、出てくることはできないだろう――。  これは近隣の村に伝わる遥か昔からの言い伝え――。
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