【一】突然すぎる婚約話

3/25
前へ
/25ページ
次へ
 息をゆっくりと吸い込むと、雨に濡れた草木の匂いと共に、凛とした清浄な空気が私の肺を満たした。  広々とした神苑を抜け、手水舎で身も心も清めた後、さらに奥へと進んでいくと、やがて左手に神楽殿(かぐらでん)と呼ばれる入母屋造(いりもやづくり)の建物が見えてくる。 「ところで、いつき様」 「なに?」 「さきほど宿で耳にしたんですけど、ミヅハの若旦那が、なにやら面妖な歌を」  豆ちゃんが、よく知った名前を出した時だ。 「いっちゃん」  前方から声がかかり、豆ちゃんに落としていた視線を上げると、白い和傘をさし、おっとりとした笑みを浮かべ、私に小さく手を振る可愛らしい友人の姿があった。 「さくちゃん、お疲れさま」  白い小袖に朱色の袴。  後ろでひとつに結った長い黒髪を柔らかく揺らしながら、さくちゃんがこちらへと歩み寄る。  さくちゃんは、子供の頃から伊勢神宮の舞女になるのが夢だったらしい。  叶った今、毎日生き生きと伊勢神宮で働いている。 「いっちゃんもお疲れさま。今日はお墓参りだったのよね? お父さんとお母さんには会えた?」 「ううん」  ゆるりと頭を振ると、さくちゃんは顎に人差し指を添えて小首を傾げた。 「そう。おかしな話よね。神様やあやかしは視えるのに、幽霊は視えないなんて」 「そうだね。なんでだろ」 「今も、誰かあやかしさんがいるんでしょう?」  私の足元に視線を落としたさくちゃんの瞳には、小型犬ほどの大きさがある豆狸は視えていない。  けれど、彼女も昔から普通の人よりも霊感があるらしく、気配は感じられるとのことだ。
/25ページ

最初のコメントを投稿しよう!

368人が本棚に入れています
本棚に追加