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ジメジメとした梅雨時。俯いて早足に歩く人々の傘と紫陽花の花がこの街を彩っている。大ぶりで鮮やかなこの花は嫌いじゃない。
夜になれば人気はなくなり、ぽつぽつと立つ街頭の光が紫陽花の花を照らしている。そんな中、病人と錯覚する程に蒼白い肌の美しい男に出逢った。男の腕には、だらんとと力が抜け怯えたような表情で目を見開いた若い女がいる。暗くてよく見えないがその首に点々と2箇所、小さな穴が空いていてそこから水が流れているように見える。きっと女は死んでいる。こちらを振り返った男の唇と自分のものより長い犬歯は赤黒く染まっていた。
「吸血鬼……」
自分の胸が高鳴ったのが分かった。これはまるで何処かの名のある有名な絵画の様な光景だと思った。
食事を終えたらしい、立ち去ろうとする吸血鬼を夢中で追いかける。もっと見ておきたかったのだ。普通に歩く背中を追っているはずなのに、大きな歩幅で早足に歩いても追いつかない。
「消えた……」
角を曲がった吸血鬼の姿を見ることは出来なかった。あの姿は何も無かったかのような静寂と闇に包まれて消えたのだ。
それから人気の無い深夜の散歩に出掛けた時、何度かあの吸血鬼を目にする事が出来た。だが、それだけだ。運が良ければあの"食事"を見る事ができるだけで、触れる事も言葉を交わすことも叶わない。
自分は接触して何をしたいのか、何を聞きたいのかも決めていないし分からない。ただ1秒でもあの光景を目に焼き付けておきたかっただけだ。
街を彩る紫陽花が姿を消した頃、何とも言えない感情はいつしか、恋心のようなものになっていた。出逢える夜に恋焦がれ、血を吸われて死ぬ者を羨ましいとさえ感じた。あの氷のように冷たい視線に射抜かれ、獣のように鋭い牙で首筋を噛まれたい。蒼白い肌に体温はあるのだろうか? 消え逝く命に何を思うのだろうか?
「よく出会うな。お前は何を見ている?」
"食事"の現場に立ち会って十数度、吸血鬼がそう問うてきた。命乞いして逃げるでもなく、人に言いふらすでもなく、ただじっと見られるのは吸血鬼にとって珍しいことだろう。まさか話しかけられるとは思っておらず、俺はただふわふわとした気持ちで突っ立っていた。
「何を黙っている?次はお前の血を吸ってやろうか」
吸血鬼が脅し掛けてきた。だがずっとそれに焦がれていた俺に恐怖は無い。寧ろ出来る事なら今すぐにでもこの身を差し出してしまいたい。頬に触れた蒼白い手は死人のように冷たかった。
「どうした?恐ろしくはないのか?」
「はい、全く。この時を待ち侘びていました」
きっと真っ直ぐに吸血鬼を見つめる目は、歓びと興奮に満ちていただろう。
「珍しい奴だ。この時はみな怯えて命を乞うというのに」
「恐ろしくなどありません。ただ……1つだけお願いがあります。初めて出逢った日と同じ日に同じ場所で、この血を吸って下さい」
吸血鬼は怪訝な顔をしたが、「まあ良いだろう」と頬に触れていた手を離し、そのまま立ち去った。
夢かと錯覚するような時間だった。その約束が嘘だったかのようにまた、吸血鬼を追い求め、吸血するのを無言で眺める日々が続いた。
やがて夏が過ぎ紅葉も散り、年が明け、寒さも和らいだ。季節は巡っていつの間にかまた梅雨に入る。じわじわと、確実に約束の日がやってくる。もうすぐまた紫陽花の花が色づく。止みそうにない雨が降る。そう思うとよりその日が恋しくなる。
そしてついに、待ち侘びた日がやってきた。
「ようやくか……」
初めて出逢ったこの日を指定したのは、あの紫陽花は吸血鬼を表しているように思えたからだ。その花は情熱と血の赤でもなく、闇に溶ける黒でもなく、ただ偶然居合わせた場に咲いていた花だ。吸血鬼に似合う花と言えば、普通は真っ赤な薔薇を連想するだろう。だが、俺は紫陽花が似合うと思った。吸血鬼と青い紫陽花、その両方を同時に最期に瞳に映したかった。
「随分と早く来たな」
真夜中、指定した場所に吸血鬼は訪れた。空に雲は少なく、見事な三日月の夜だ。
「この日を楽しみにしていましたから」
「可怪しな奴だ」
そう言って吸血鬼は此方に近づく。そして一気に距離を縮め、身体を抱きしめられてそのまま首筋に牙を立てられた。
「ゔぁ…………」
遠慮も前触れも無く、思い切り噛まれた。ズキズキとした想像以上の痛みと流れる血のドロリとした生温かさ、吸血鬼の冷たい唇で吸われている事によるぞくぞくとした快感で、身体がおかしくなってしまいそうだった。吸血鬼の背中に腕を回し、どうにか意識を保とうとしがみつく。だが恐怖はなく、ただ歓びと共に全てを委ねた。
「お前の血は随分と美味だな」
「ありがたき幸せ。出来る事なら今この時間が永遠に続いて欲しいです」
「ただの餌ごときが何を言っている?」
吸血鬼が嘲笑した。珍しかろうが美味かろうが所詮は自分の餌だと、そう言った。嗚呼、やはり今日この日にこの場所を選んで良かった。
吸血鬼が舌を這わせて鎖骨の方に流れた血を舐めとり、再び首筋に噛みついて吸い始める。段々と視界がぼんやりとして意識が朦朧としてきた。手放すまいと必死に吸血鬼の服を握りしめようとするが、もうそんな力など残っていなかった。薄れゆく意識の中で最期に見た青色の紫陽花は、初めて出逢ったあの時のように街頭に照らされ、凛とした様子で綺麗に咲いていた。ああ、待ち望んだ理想的な終焉だった。
〔紫陽花(青色)の怖い花言葉〕
冷酷、移り気、浮気、無常、辛抱強い愛情、貴方は美しいが冷淡だ
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