雪割草(short ver.)

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「晋、何してるんだ。出かけるぞ」  アトリエからなかなか出てこない僕にしびれをきらせて父さんがドアを開けた。  とたんに振り向いた僕の手から絵筆がこぼれ落ち、完成したばかりの絵の上にトンっと当たって床に転がる。 「……あっ!!」  真っ白な雪景色の中央に赤い点が散らばった。  父さんが大きく息を呑む。  カラカラと床を転がって赤い線を描いた筆がようやく止まった時、初めて父さんが少し動いた。  雪の上の赤い染みは、まるで血のように見えた。 「……晋……おまえ……」  僕は、その時どんな表情をしていたのだろう。 「……僕……謝らないからね」 「……!?」 「こんな絵、ちっとも良くない。全然良くない」 「…………」 「こんな最低の絵、駄目になって良かったんだよ!」 「晋!!」  父さんが思わず拳を振り上げたのが見え、僕は恐怖に目をつぶった。  殴られる!!  間違いなくそう思ったのに、その後来るはずの衝撃も痛みもなくて、僕は戸惑いながらそっと目を開けた。  父さんは怒ってなかった。  そのかわり、父さんはとてもとても哀しそうだった。  僕はギュッと唇を噛みしめて父さんの横をすり抜け、アパートを飛びだした。  僕は悪い子だ。  父さんを哀しませて謝りもしない。  僕は本当は少しも良い子じゃない。  必死で良い子になろうとしても、こうやってボロをだす。  僕は、内心喜んでいたのだ。  絵が台無しになって。  きっと、心の底で笑っていたのだ。  かじかむ手を握りしめ、僕は街の大通りを抜け、学校の横を曲がり、走り続けた。  右手にちらりと光基の家が見えたけど、見ないふりをして走り続けた。  やがて僕はようやくすっかり街外れまで来てしまったことに気付き、走るのをやめた。  立ち止まると、手と顔が凍えるほど冷え切っているのがわかる。  いつの間にか雪は止んでおり、僕は頭上に重くのしかかっている雲を見上げた。  ポツンとひとり。  誰もいない。  何故だろう。笑いがこみあげてきた。  僕は、何を惜しがっていたのだろう。  いつだって僕はこんなふうにずっと独りだったのに。  少しだけ、ここの人たちがいつもより優しかったからといって、それが何だっていうんだ。  ここを離れて数ヶ月もすれば、彼らだって僕のことなんか忘れてしまう。  いつだってそうだ。  手紙も書けない。電話も出来ない。逢うこともない。  僕は通りすがりの誰かさんと同じで。
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