0人が本棚に入れています
本棚に追加
ミクロコスモスより愛を込めて
「どうしてアマモの花には花言葉がないんだろうね」
そんな彼女の言葉を思い出したのは、多分潮風が少し冷たかったからだと思う。
夕暮れの空と海が地平線をハッキリと示し、そうして遠く離れた浜辺にいつもの規則正しい波を送っている。
そんな時間に、そんな場所で僕は何をしているのだろうか。
まるで他人事のように背後から僕を見つめる誰かが、静かに自分の無理解を押し付けてくる。その人のことを僕は誰よりもよく知っているはずなのに、どうしてか彼は僕のことを理解してくれようとしなかった。
「この水槽のアマモ、花が咲いてるよ」
でもそれは僕が彼女に抱いていた違和感と全く同じものだったと気づいたのは、足元に海に流れ着いた海藻をスニーカーで踏んづけてしまったせいだった。
生まれ故郷の小さな町が運営する小さな科学博物館に彼女を連れて行ったとき、僕らはこの何気ない会話をした。
どうして彼女をそんなところに連れて行ったのか、と聞かれると答えに困ってしまう。デートにしてはつまらない、そう言われてしまえばそれまでのことだ。
それでも僕がどうしても彼女とそこに行きたかったのは、彼女の知らない僕の過去を、少しだけ知って欲しかったから。
明音と出会うずっと前、僕が幼稚園生の頃の話だ。両親はよくこの科学博物館に僕を連れて行ってくれた。子供ながらに覚えているのが、今にも動きそうな昆虫たちのレプリカと、DNAの大きな模型と、「ミクロコスモス」と呼ばれる小さな水槽だった。
幼稚園生なんていうのは単純で、ミクロコスモスは、魚という動くものがいる時点で魅力的だった。一緒にその水槽の中で暮らすエビや藻や砂が認識できないくらいには、その小さな魚は僕の心を捉えて離さなかった。
けれどもそれは幼子の好奇心とかいうやつで、成長して魚釣りや水族館を覚えてしまってからはその記憶は「初めて魚を見た場所」としてのみ僕の頭の中に保管されていた。
だから十何年ぶりにその科学博物館を訪れて、そうして再びミクロコスモスを見たとき、案内板に書かれていた言葉と、僕が今まで無視し続けていた事実に驚かされた。
「このミクロコスモスでは、魚を初め砂や藻、エビや貝などが互いに相互作用しあって生きています。ですので餌やりや空気ポンプも必要ありません。半永久的に、この水槽は生き続けるのです」
僕が昔心惹かれた魚はもういない。けれどもその子孫が、元気にその水槽を泳いでいた。
「へーすっごい」
更新された知識に興奮して、僕はその水槽をしばらく眺めていた。すると少し遅れて、明音が隣に並んで水槽を眺めていた。
「あ、見てみて」
「ん?」
「この水槽のアマモ、花が咲いてるよ」
そうして彼女の指差す先には、それはそれは小さな花が、あの藻特有の細い葉っぱの間に咲いていた。
「ほんとだ綺麗、っていうか本当に花だ」
花が咲いていることにも驚いたが、一番驚いたのは、明音がアマモのことに詳しいことだった。
「生き物とか植物とか大嫌いなのに、なんでアマモを知ってるの?」
「昔うち魚飼ってたから、その時に飼い方の勉強してて、それでね」
そう言って笑った彼女の顔はどこかノスタルジアを纏っていた。初めて一緒に来たはずなのに、ずっと昔から、二人でこの科学博物館に通っているかのように錯覚させられる。
「どうしてアマモの花には花言葉がないんだろうね」
どれくらい二人とも無言で水槽を眺めていたのだろう。なんの前触れもなくポツリと呟いた彼女の言葉は、久しぶりに聞く人間の言葉のように感じた。それくらい僕はこの「小さな宇宙」に惹かれていたし、僕はその宇宙の一員になっているような気がした。
「うーん、なんでだろうね。草に咲く小さな花なんて、人には見えないんじゃないかな」
「でも花が咲いているのは事実だよ。誰かに知られなくても、花は水の中で静かに咲いている。綺麗だと言われなくても、花言葉をつけられなくても」
正直アマモに咲く花に花言葉がないことすら知らなかったが、それ以上に普段の明音からは想像もできないような、少し切ない言葉が胸に刺さった。
誰からも認められず、誰からも褒められれず、ただただストイックに自分を追い込んでいる姿を、僕は何年も後ろで、時には隣で見ていた。僕にとって彼女の存在は花だったのかもしれない。
でも当の花は、他者からの美意識や意味なんてなんの役にも立たないことを知っていたのだろう。
そこに存在すること。ただそれだけのこと。
事実でも主観的な意見でもない、絶対的な無意味。
その存在は、他人にも自分にも認知されない不可侵領域であり、真の美しさの象徴のような気がした。
「でもこの植物自体には、とても素敵な名前がついているんだよね」
先ほどの暗い影をどこかに潜めつつ、再び笑顔で話し出す彼女の顔を、水槽の反射越しに見つめる。少し屈折した顔は面白かったが、とても綺麗な顔をしていると思った。
「龍宮の乙姫の元結の切り外し、日本語で一番長い植物の名前」
「龍宮の乙姫って、浦島太郎の?」
「うん、あの乙姫様の髪を結んで切ったもの、それがこの植物の名前、素敵でしょ?」
乙姫様の髪、というのは非常にロマンがあると思ったが、不謹慎ながら羅生門の老婆を思い出してしまった。
「なんで切っちゃったんだろうね、売ってお金にするのかな、羅生門みたいに」
「ちょっと、今いい話してたのに...」
「ごめんって、どうしても言いたくて」
膨れた頬でこちらを睨んでくる顔を見て、僕は思わず冗談を言って良かったと思ってしまった。微笑んでいる顔も好きだが、不満な顔も好きだった。
本当に怒った時の顔は怖いのでそうでもないが。
「でも女の人が髪を切る理由なんてそんなにないんじゃない?」
「あーあれか、気持ちの切り替えとか、失恋だっけ」
髪を切ることにそんな意味があるのだろうかと、マセガキだった頃はなんとなく思っていたが、大人になって少しだけその意味がわかったような気がする。
僕は女の人ではないが、それでも髪の毛を切ると、どこか気分がいいのは確かだ。
だから失恋で髪を切るのは、あながち間違いじゃないのかもしれない。髪を切った時の気分で、失恋の痛みを相殺しようとする。たとえそれが到底不可能なことだとわかっていても、人間はどうしてもけじめをつけなければならないのだ。
「うん、だから、浦島さんが帰った後に切ったんだよ、もう会えないって分かってたから」
「そういえば浦島太郎は人間界に戻った後、何百年という時が過ぎていた現実世界に絶望していたんだっけ、それで玉手箱を開けておじいさんになった」
「うん、でもみんな浦島太郎ばっかりに目がいっちゃって、乙姫様の気持ちなんてちっとも考えやしない。太宰治が書いた浦島さんだって、乙姫様のことなんて全然触れてなかったじゃん」
学生時代授業中に触れた太宰治の御伽草紙に収録されていた「浦島さん」についてレポートを書いた時、恐ろしいくらい良い点数をもらったのを思い出したが、確かに書いていたことは浦島さんと太宰についての考察だった(ところで話は少しそれるが、筆者は太宰治の本は大好きだが太宰治本人は大嫌いである)。そこに乙姫の介入する余地はなく、物語の「装置」として役割も薄かったのを覚えている。
そういえば作中乙姫様は一言も喋っていなかったような気がする。
「私ね、少しわかる気がするの。なんで乙姫様が浦島さんを引きとめなかったのか。そしてなんで髪を切ったのか」
「君、失恋経験なんてあったっけ?」
「ないよ、でも、なんだろう。乙姫様の髪の毛と、あの花言葉をつけてもらえないアマモに咲く花は、きっと同じなんだと思う。おんなじ植物の話だけど、そういうことじゃなくて、なんていうんだろう」
言葉を選びながらしゃべり続ける彼女の手を握ったのは、ミクロコスモスの魚が、突然永遠に泳ぐことをやめてしまったから。
目に涙を浮かべる彼女を「情緒不安定」の一言で片付けてしまうのは、あまりにも軽率で疎かな行動だと思った。
「乙姫様の髪の毛が浜辺に流れ着いても、私たちは乙姫様に会えるわけじゃないし、生きていることを確かめられるわけじゃない。地球の七割を占める海のどこにいるかもわからないような、ひとりぼっちのお姫様なの。何百年も一人ぼっちで、周りは海の生き物ばっかりでおんなじ「人」がいなかった。だからきっと浦島さんと会えた時、乙姫様は本当に嬉しかったんだと思う。嬉しくて、それで、少し寂しかったんだと思う」
「会えたのに?なんで?」
「出会いがあれば別れがある、でしょ?」
JPOPの歌詞に出てくるような安いフレーズは、この時重みを帯びて僕の胸にのしかかった。
それは全人類に当てはまることなのだ。たとえ離婚せずに長続きしても、「死」という絶対的な別れが付いて回る。永遠の絆、永遠の愛も、結局は「死」という物理的な別れによって遮断されてしまう。
「だから浦島さんが帰った時、またひとりぼっちに戻るために髪を切ったんだと思う。もう二度と誰かに期待したりしちゃいけない。人間はいつだって孤独だから」
「アマモの花も、孤独だから花言葉がないってこと?」
「みんなが見つけてくれていたら、今頃花言葉くらいあってもいいでしょ?」
そういって笑う彼女は、少し泣いていた。そうして僕の手を離して、目をこすっていた。
正直に言おう、僕は彼女の話を理解したつもりになっていた。この時彼女が伝えたかったことをちゃんと理解していれば、きっとこの海辺を二人で歩いていたことだろう。
でも僕は、彼女が孤独であると主張することが、嫌で嫌で仕方なかった。
まるで僕がその場にいないような告白。それは僕という他者を排除し、彼女という限定的な「個」の中で行われれていたアナラシス。
それは、僕が他者に自らを開いていない証拠だったのに。
「でも絆や愛は、死してなお輝くんだよ。誰かが忘れない限りそれは存在し続ける。歴史の教科書とか、本とか、日記とか。永遠ではないかもしれないけど、形として残る限り、それは生き続けるんだ」
だから僕がこういった時、彼女はどこか諦めた顔をしていた。諦めて、また微笑んだ。
「そうかも、しれないね」
結局彼女の顔を見なくなったのは、それから二ヶ月後くらいのことだった。でも僕は思うのだ。あの時、既に僕らの間には決して修復のできない「別れ」が訪れていたと。
ひとりぼっちの乙姫が髪の毛を切った話は、きっと彼女の話だったのだろう。そして花言葉のないあの花も、きっと彼女の話だったのだろう。当然だ、同じ植物の話をしているのだから。
けれどもそこには二つの明音がいて、僕はその迷える彼女に心を開くべきだったのだ。
髪を切り孤独で生きることを決断した乙姫と、花言葉をつけて欲しかった花と、その両極端に、明音は立っていた。僕はどちらにも行かず、当たり障りのない答えで彼女を慰めようとした。
彼女のことなど、ハナから見ていなかったから。
ミクロコスモス、それは一つの完成された小さな宇宙だ。
でもその宇宙は本当に完成されていたのだろうか。四六時中ライトが当たり、人間が水槽の中を覗き込み、定期的にガラスを拭かれるあの水槽は、本当にあの箱の中で全てがバランスよく取れていたのだろうか。
僕らはきっとアマモと同じだ。彼女が大海に生えるアマモだとしたら、僕はミクロコスモスの中に生えるアマモだった。知っている気になって、理解している気になって、そうして世界を俯瞰的に見つめる。
本当は井戸の中に住むカエルよりも、海のことなんて知らないのに。
だから彼女は僕に見切りをつけたのだと思う。
世界という広大な海に生きた彼女は、誰から見ても美しい花を咲かせた。
水槽の世界しか知らない僕は、自分の咲かせた花に満足していた。
完成された宇宙ほど、つまらないものもないのに。
だんだんと僕に興味をなくし、ついには何も期待しなくなった彼女のことを、僕は最後引き止めることができなかった。
あまりにも眩しくて、あまりにも綺麗だった彼女の人生を、邪魔するわけには行かなかったから。
ならば何故、僕は流れ着いたアマモを手にとって、日が沈みかけてもなおそれを見つめているのだろう。
理由を知っていて納得しているはずなのに、何故こんなにも後悔が押し寄せてくるのだろう。
そうして少し考えて
そうして少し笑って
そうして少しごまかして
僕は乙姫様の髪の毛を返すために、振りかぶってアマモを投げた。
投げたことに意味なんてないのかもしれない。
乙姫様に届かずまた浜辺に戻ってきてしまうかもしれない。
そもそも乙姫様なんか存在しないのかもしれない。
でも生きている限り、僕らは心に花を咲かせるのだ。
誰かを想って、僕らは花を咲かせるのだ。
例えそれが人から認知されないような小さな小さな花だとしても、誰か一人でもその花を「綺麗だ」と言ってくれれば、それでいいのだ。
何故なら、人は決してひとりで生きていないから。
何故なら、別れが訪れる運命だとしても、僕らが再び海に帰っても、誰かがその人のことを必ず想ってくれているから。
何故なら、花は、きっと美しいから。
だからどうか乙姫様、悲しまないでください。
それが、人に残された唯一の救いなのだから。
だからどうか君よ、僕の惹かれた綺麗な花を、いろんな人に見せてあげてください。
それが、僕に残された唯一の救いなのだから。
だからどうか皆様、どんな形でもいいから心に花を咲かせてください。
それが、愛の一番綺麗な形だから。
だから
だから
だから......
もし、あの花に花言葉をつけるのだとしたら、きっと「ミクロコスモスより愛を込めて」なんて小洒落た名前をつけるだろうな。
そんなことを考えながら、僕は 心の中で、乙姫様に、そしてどこかで暮らしている彼女に呟いた。
どうか、花を咲かせてください。
沖に流されていくアマモは、そんな僕を笑っているみたいだった。
最初のコメントを投稿しよう!