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女の子は顔が命だ
母や祖母は、桃子が顔にかすり傷を作って帰って来る度に、そう言ってたしなめた。
女の子は顔を大切にしなきゃいけない。
傷を作って痕になったら、ずっと辛い思いをするよ。
当時は、何故そこまで顔を気遣うのか、桃子にはわからなかった。
いや、顔に大きな傷痕を作った今でも、あんまりわからない。
確かに、初対面の人にはギョッとされるし、気を使って見ないようにされたり、気まずい視線を感じてしまう事は多々ある。
道行く小学生には影でコソコソと囁かれるし、買い物帰りのおばさん達には哀れみの視線を向けられるし。
そんな時はちょっと気まずくなるが、落ち込むかと言えばそうでもなく、慣れてしまえば、どうという事はない。
それでも、母や祖母、周りは桃子を気の毒そうに扱った。
そうされればされる程、自分の女の子としての価値はなくなったのだと感じる。
綺麗な果実の中から弾かれる、品物にならない傷物の果実のように。
(私はそれでも全然平気だけれど、どうして周りは気にするんだろう。特に、りっちゃんは…)
朝、洗面台の鏡に映った自分の顔をまじまじと眺めながら、桃子はふと思った。
鏡には、やけに肌の白い、覇気のない顔をした女の子が映っている。
肩上まで切り揃えた黒髪のせいだろうか、ホコリを被った日本人形のようだ。
そのホコリを被った日本人形の左頬には、赤く滲んだ大きな痕がある。
太筆でサッと書いたような切り傷が、頬下から顎にかけて、7cm程あった。
桃子は傷痕にそっと指先で触れると、小さくため息を吐いた。
(卒業して、高校生になったら、やっと解放されるのかな…。私も、りっちゃんも…)
ぼんやりとそんな事を考えていると、母親が洗面所のドアを慌ただしく開けて顔を出した。
「桃子、早くしなさい!律斗君がもう来てるわよ!」
「あ、う、うん!」
慌てて顔を洗い、廊下に準備していたコートとマフラーを身に付け、鞄を引っ掴んで玄関に手をかける。
勢い良くドアを開けたはいいが、ちゃんと履いていなかったスニーカーで足がもつれ、軽く転んでしまった。
「いててて…」
膝をついたまま顔を上げると、呆れた様子でこちらを見ている少年と目が合った。
学ランのポケットに手を突っ込み、気だるげな様子でこちらを見ている。
いつも無愛想な彼は、当然心配する素振りなど見せず、「だっせ」と呟いてため息を吐いただけだった。
「お、おはよ。今日も寒いね」
桃子が立ち上がるのも待たず、スタスタと先を歩き出した律斗の後を、慌てて追いかける。
冷たい外気で、鼻の奥がツンとした。
「ますます寒くなるね。もうすぐ受験だし、風邪ひかないように気を付けないとね。あ、この前りっちゃんに借りた参考書、とっても見やすかったよ、ありがとう。はかどったから、夜中まで起きちゃったよ」
素っ気ない背中に、一人でベラベラと話しかける。
ろくな返事がないのは分かっていても、桃子はこうして毎朝律斗に話しかけている。
彼がちゃんと聞いているのも、分かっているからだ。
「昨日ね、りっちゃんのおばさんに里芋の煮物貰ったの。美味しかったって言っておいてね。おばさんの煮物って本当に美味しいよね。私大好きなんだぁ。うちのお母さん、焼くのと揚げるのは上手なんだけど、煮るのは苦手でさ。あ、知ってるよね」
寒空の下、よく動く口元だけが温かくなる。
桃子は世間話をいつもより多めに話した後、スカートのポケットに忍ばせていた手紙を取り出した。
昨日、クラスメイトの佐山から預かって来たものだ。
桃子はいつもよりどこか緊張して、自分より少しだけ高い律斗の肩を叩いた。
「あのね、りっちゃん。これ、同じクラスの佐山さんから預かって来たんだ」
佐山、と言う名前に、律斗がピクリと反応する。
足を止めて振り返った律斗に、桃子は「えへへ」と気まずさを追い払うように笑って見せた。
「返事は、受験が終わってからでいいって」
律斗の手に、そっと手紙を渡す。
律斗は受け取ってから暫く沈黙した後、その手紙をポケットにしまって歩き出した。
彼の表情からは、なにも読み取れなかった。
「ね、りっちゃん」
「なに」
「あのね、あの…」
「……………」
「えーっと、その…」
なんと言おうか、言葉を選び過ぎて、グズグズとしてしまう。
いつだってそうだ、肝心な時はいつも緊張して言葉がうわずり、動きも鈍くなってしまう。
だから、律斗や周りにトロ子と呼ばれてしまうのだ。
そんな自分だったが、今日だけはトロ子でいてはいけない。
(そうだ、ハッキリ言わなきゃ…!今言わなきゃ、いつ言うんだ…!)
両手で拳を握り締め、キッ、と律斗の背を睨む。
苛立っていた背中にゾッとして怯みそうになりながらも、桃子は意を決して言った。
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