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「そう言えば、言わなくなったな」
「え…」
「ごめん、って。今日だったらたぶん、十回以上は聞いてるはずだったけど」
「あ…」
急に恥ずかしくなって、ギュッと拳を握り締める。
誤魔化さないでいようと、勇気を出して言った。
「りっちゃん、言ってくれたでしょ?新しい関係を築けたら、って。私もね、そう思ってたんだ。だから、もう、りっちゃんが助けてくれる事に対して、ごめんって言いたくなくて…。ありがとう、って、言いたいなって思って」
ドキドキと緊張しながら律斗を見ると、律斗は一瞬驚いた顔をして、そして何故だかフイと顔を背けた。
「あぁ、うん…」
「駄目、だった…?」
ガンッとショックを受けながら訊ねると、律斗は「違うから」とすぐに否定した。
「駄目とかじゃないから。ただ、ちょっと…」
「ちょっと?」
不安になって詰め寄ると、律斗は手の甲で自分の顔を隠しつつ、呻くように言った。
「なんでもないから」
暗がりの中、テレビの明かりを頼りに、何とか律斗の顔色を伺ってみる。
しかし、大きな手が桃子の顔を覆い隠した。
「りっちゃん…!?」
「お前しつこい」
怒られて怯みそうになったが、負けじと力一杯指をずらす。
隙間からかろうじで見えたのは、頬を赤く染めた律斗だった。
(うわぁ…)
胸のときめきに、思わず息を飲む。
普段仏頂面の彼だからこそ、このギャップが憎らしい。
桃子は勢い良く布団に顔を埋めると、ドキドキとする自分の心臓を必死に押さえ付けた。
「りっちゃん、ずるいよ…、それはズルイ…」
「はぁ?なにが」
うぅー、と唸る。
グリグリと布団に顔を押し付けていると、律斗が嘆息した。
「お前も充分ずるいよ」
「え?」
のろのろと顔を上げると、律斗が困ったように笑っていた。
「なんか、すっかり前向きになった感じがする」
律斗は、長い睫毛を微かに伏せて言った。
「俺の知ってる桃子は、弱々しくて、泣き虫で、すぐ自分のせいにして、口癖のようにごめんって言って。…ずっと、俺に対して、申し訳ないって顔して接してた。俺も慣れてたから、別にどうと思う事はなかったけど…」
苦笑しつつ、律斗は穏やかに続ける。
「なんて言うか、素直に受け取られると、変な感じだな。嬉しいけど、放って行かれるような、俺の知ってる桃子じゃなくなるような…」
どこか寂しそうな彼の瞳に、胸が急に切なくなった。
遠い昔の、小さな律斗が、「おいて行かないで」と言っているようで、桃子は今の律斗に届くよう、一生懸命に言葉を紡いだ。
「私、りっちゃんと新しい関係を築きたい。変わったように見えるのは、これからもりっちゃんの側にいたいからだよ。だから、ありがとうって、言い続けたい。例えそれが、りっちゃんを縛り付けてしまう言葉でも」
「いいよ、縛り付けても」
「え…」
「桃子をこれから先もずっと守りたいって気持ちは、変わらないから」
律斗の綺麗な瞳が、真っ直ぐとこちらをとらえている。
けれど、素直に肯くには、少しの不安があった。
「それだと、やっぱり今までとあまり変わらないのかな?りっちゃんは、ずっと守ってくれてたから…」
律斗はいくばくか考える素振りを見せた後、あっさりと言った。
「今までと違う気持ちでいる事は確かだけど」
目を丸くしていると、おもむろに律斗の手が伸びて来た。
指先が頬に触れ、ドキッと心臓が跳ねる。
「俺、桃子には亮太がいても、遠慮しないから」
突然、鉛を飲んだように、胸の底が重くなった。
蓋をしていた罪悪感が徐々に溢れて来る。
優しく微笑んで手を差し出す亮太が目に浮かんで、泣きたくなった。
その手を受け取れなかった自分が、改めて酷い奴だと実感する。
「あのね、私、いっぱい助けてくれた亮太君の気持ちに、答えられなかった…。救われて、元気をいっぱい貰ったのに、なのに、傷付けて…」
気持ちが乱れて来て、途中から息が荒くなる。
懺悔するような気持ちで吐露すると、律斗の親指が、慰めるように桃子の頬を撫でた。
「俺が悪いんだ。でも、今度は間違えない。お前の手、離さないから」
暗がりの中、律斗の顔が近付いてくるのが分かった。
顔が少しだけ傾いて、唇が重なろうとする。
桃子はそうする事が自然であるように、瞼を閉じた。
「いや、やっぱり今はまずい。ごめん」
突然、パッと律斗の顔が離れる。
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