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「そのくせ、桃子を俺ん家に寄越したりするんだ?幼馴染みの枠から出ないからって安心して」
逸子は、彼が少し怒っているのに気が付いた。
昨日、桃子を彼の家へ押し付けたからだろう、という察しは付いている。
「別にいいじゃない。あんたと桃子だし」
「俺が桃子に手を出す訳ないって?」
「そりゃそうでしょ。そんなのは親も私も分かってる。あんたは桃子を絶対に傷付けないし、嫌がる事は絶対にしない。甘く見てるんじゃなくて、信用してるのよ」
「そう言っておきながら、離れろって言うのはおかしいだろ」
確かにおかしい、とは思っているが、逸子も心中は複雑だった。
「今のあんた達の仲は信用してる。でもこのままじゃ駄目だって言うのも分かるのよ。あんたも桃子も互いに縛られずに、他に大切な人を作るべきよ。というか、そうなる時が来た時の為に、離れておくべきなのよ」
律斗はまた押し黙ると、地面の雪を見つめた。
あれだけ綺麗だった雪が、足に踏みつけられ、泥や石で茶色く染まっている。
まるで、汚された彼の純粋な気持ちのように見えて、逸子はギュッと重い唾を飲み込んだ。
(キツイ事を言っても仕方ないのよ。これは二人の為なんだから…)
今朝、熱に浮かされた妹の口から出た言葉は、律斗の名前だった。
幸せそうに呟かれる彼の名前。
妹が、目の前の少年に恋をしている事を、ようやく逸子は悟ったのだった。
(どちらか一方に恋心が芽生えれば、どちらも苦しい思いをする…)
桃子を傷付けられない律斗、律斗への罪悪感を募らせている桃子。
この二人の間に恋愛が絡めば、拗れていくのは目に見えている。
だから、そうなる前に離れて欲しい。
大切な妹と弟を想えばこその、気持ちだった。
「逸子姉ちゃん」
いつの間にか熟考していたのだろう、律斗に名前を呼ばれてようやくハッとした。
目の前には、珍しく優しい表情をした律斗がいた。
「あのさ、俺の事、そんな風に信用しない方がいいよ」
「え…」
「俺、確かに桃子を傷付けたくないし、嫌がる事はしたくない。でも、逆に桃子が嫌がらないって分かってたら、手を出さない事はないから」
「……え?」
突然の話に、逸子は思わず破顔してしまう。
少年は気にせずあっさりと続けた。
「正直昨日は、結構やばかった。何もなかったのは、そう言う気が起きなかった訳じゃなくて、俺が必死に我慢した結果なんだよ」
「律斗、あんた、なに言って…」
「いやだから、桃子に手を出さないって思い込むなって事。俺だって男だから。普通に欲求はある」
幼くて子供だった弟が、一気に大人の男に見えてくる。
目の前の彼は、本当に律斗なのだろうか、と逸子は一瞬疑ってしまった。
「あと、離れるつもりないから。心配してくれてるのは分かってるけど、逸子姉ちゃんが思うような事にはならないから。つか、もうとっくに拗れてるし。拗れて、今やっと前に進めてる」
「前に、進めてる、って…」
「俺、桃子の事、守らなきゃいけない幼馴染みって、もう思ってないから。まぁ、守りたいって気持ちは変わらないけど」
律斗は二階の窓を見上げる。
そこは、桃子の部屋の窓だった。
その穏やかな瞳に、逸子は全てを悟ってしまった。
「な、なに?そう言う、こと?」
「あー、うん。そう言うこと。だから、今度からは簡単に桃子を家に寄越さない方がいいよ。無害に思われてるのも、なんか腹立つし」
不服そうに言った生意気な弟に、逸子は思わず飛び付いて彼の頭をグリグリと撫でていた。
どうしてだか、泣きたくなるような温かい気持ちがせり上がってきて、どうしようもなかったのだ。
感情が爆発するとは、こう言うことなのだろうか。
「ばか!そういうのは早く言え!無駄に心配しちゃっただろ!バーカ、バーカ!」
「わ、なんだよ!?」
「このクソイケメンめ!いつの間にそんな事になってんのよ!?ちゃんと聞かせなさい!」
「は?絶対嫌だ。つかやめろって」
逸子には、彼にずっと言いたくて、でも言えなかった言葉がある。
自責の念を抱く小さな少年の肩に、背負わせる訳にはいかなかったのだ。
けれど、やっとその言葉を素直に言える時が来た事に、逸子は泣きたくなる衝動を必死に堪えて、声高らかに言ったのだった。
「桃子のこと、頼んだよ!バカ!」
静かに、息を潜めて、自己を押さえ込んでいた少年が。
やっと、肩の荷を下ろして、微笑んでいた。
◇ ◇ ◇
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