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「あ」
不意に、鼻腔に漂ってくるどこか甘い香り。私は誘われるように廊下をそちらの方へと歩いていった。プレートに刻まれている名前を見て確信することになる。此処が、病弱な長男・フランソワの部屋である、と。
「フランソワ様?いらっしゃいますか?わたくし、新しく入ったメイドのアイリスと申します。ご挨拶したいのですが、よろしいですか?」
トントン、とドアをノックすると。すぐに“どうぞ!”と思ったよりも快活な声が聞こえてきて驚いた。そっとドアを開くと、先ほどよりもはっきりと甘い香りが漂ってくる。メープルシロップなどの甘さとは違う、どこか清々しい香りだ。すぐに視線はそちらへと向けられた。ベッドでスケッチブックを握っている金髪の少年と、窓際に飾られた大きな花瓶に。
この香りは、あのピンクのちいさな花から漂ってきているのだろう。一つ一つは小さいのに、それが寄り集まって豪華さをかもしだしている。少年は、私が入ってきた気配に、そっとスケッチブックを置いてこちらを見た。金髪に、まるで空のような青い青い瞳の、とても綺麗な顔をした少年。
資料で見た通りだ。彼が、長男のフランソワなのだろう。想像していたよりずっと元気そうではあるが。
「こんにちはアイリス。初めまして、僕はここの長男のフランソワです。見ての通り、あんまり外へは出られない体なんだけどね」
「初めまして、フランソワ様。……えっと、何かご病気ということでしょうか?とても顔色はよろしいように見えますが」
「あはは、そう見える?よく言われるよ」
事前情報でとっくに知っていることではあるが、知らないフリして質問してみることにする。
フランソワは気さくで、貴族には珍しく下の階級の者達を差別したりしない。メイド達の評判も頗るよろしい。聞いていた通り、彼はアイリスのやや不躾な質問も怒ることなく対応した。
「外で走ったりしなければ、発作が起きることもないからね。熱がある日とかだと、苦しくてベッドから起き上がれなくなることもあるけれど。普通に立ったり歩いたりするくらいなら問題ないし。僕の趣味は絵を描くことだから、一人で部屋にいることも全然平気なんだ」
絵。私の視線は、自然に彼の膝下に落ちる。そこには、あのピンクの可愛らしい花の絵が丁寧に描かれていた。
「すごい……」
そして、言葉を失うことになる。画材は、色鉛筆だけ。それなのに、まるで写真に撮ったような写実的で華やかな花達が、まるでスケッチブックから浮き上がるかのごとく存在していたのだから。
素直な賞賛を口にすると、彼はありがとう!とやや頬を染めて笑った。
「レインブールの花なんだ。紫が主流だけど、僕はピンクの花の方が好き。花言葉がとっても素敵なんだよ」
「花言葉、ですか」
「うん。花の魅力は見た目とか香りだけじゃない。そこに込められた意味にもあると思ってるんだ。この国に咲く殆どの花には、名前の由来だったり花言葉だったりが存在している。花言葉って面白いんだよ、色によっても、本数によっても変わってきたりするんだから」
す、と。彼の十五歳にしては華奢でほっそりとした白い指先が、花瓶の中の花に触れた。彼が優しい人だと、それだけで分かるような品のある仕草で。
「ピンクのレインブールは“平和を祈る”。“平等を謳う”。……僕は、この国から……いつか階級制度なんてもの、なくなればいいと思ってるんだ。みんな同じ人間なのに、貴族かそうでないかだけで命の価値が変わってしまうなんておかしいからね。身分だけじゃない。他の国の人だって同じ。争いをするなんて、実に愚かなことだ。まあ、残念ながら僕はこの体だから……家督も継げないだろうし、偉くなってこの世界を変えてやるなんてこともできないけどね」
だからね、と彼は続ける。
「せめて、メイドや執事の人達には、“貴族”じゃなくて“一人の人間”として接したいって思う。……友達になってくれないかな、アイリス」
きっと、狭い部屋の中――一人で考えるしかできない少年であったのだろう。顔色は悪くないが、その体は十五歳にしてはあまりにも細く、華奢だ。きっと、男女の差があったとしても、戦闘訓練で鍛えた私の方が力も強いし体力もあるのだろう。
現実を知らない。本で、そういう優しい夢物語を読んで影響を受けたのかもしれない。実に憐れだとは、そう思う。みんなで平等に、平和に、なんてちょっと世間に出ればわかる理想論なのだから。
それでも、私は。
「……私でよければ、喜んで」
そう返したのである。半分は演技、半分は本心から。
この腐った国の腐った家の中に、こんな真っ直ぐな人間がいたことに驚いたがゆえに――そしてほんの少し、興味を持ったがゆえに。
そうだ。最初はただ、それだけであったのだ。
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