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掃除などの“メイド”としての仕事をしつつ、裏ではひそかに父親の部屋を盗聴して情報を盗み、隣国に流す日々。どうやら彼は、召使とは別に頻繁に愛人を招き入れて色事に耽っているらしい。夜の盗聴は実に気が滅入るものだった。何が楽しくて、色狂いのオジサンの気持ち悪い喘ぎ声や、情事の濡れた音などに聞き耳を立てなければならないのだろう。残念ながら彼が一番口が軽くなるのは色事に耽っている時間であるようなので、贅沢を言うこともできないのだが。
それによれば、グランテス海軍は近くモリアーナ公国を攻め落とすことを画策しているらしい。極めて小さな島国だ。一体何のために侵略しようとしているのだろう。グランテス王国の海軍の力をもってすれば、落とすことなど造作もないことではあるだろうが。
――宣戦布告……遠征の時期を知ることができれば、鎮守府が蛻の空になるタイミングがわかる。そうすれば、海から回って一気にこの国を攻め落とすことも可能なはず……!
そして、この色ボケジジイは、いつ仕事をしているか怪しい体たらくではあるとしても――提督は提督、なのである。つまり、こいつの許可がなければ動けない部隊も多いということ。急に暗殺でもされようものなら、指揮系統は大いに混乱するに違いない。
それがわかるまでは、それこそジジイに夜のアレコレを命じることがあっても従わなければならないのが私だ。幸い、共和国の女スパイは私も含めて全員去勢手術済みである。表向きは普通の女性と何も変わらずとも、子宮が存在しないから孕むという心配もない。色仕掛けをしても、病気以外に気をつけることは何もないのである。
そして、そんな私にとって、唯一少しばかり心安らげる時間。それが、長男フランソワの話し相手をする時間であったのである。
「やあ、アイリス。今日も良い天気だね」
きっと父親は、彼の身を案じて一番窓の大きい部屋を彼に宛がってくれたのだろう。色ボケの無能ジジイである候爵だったが、息子達への愛情は本物だと知っている。病弱で、跡目を継ぐことができないフランソワのこともけして蔑ろにしていないようだった。
「こういう日は絶好のスケッチ日和なんだ。せっかくだからアイリス、モデルをやってくれよ。僕は花を描くのも好きだけど、人を描くのも好きなんだ」
「わたくしでいいのですか?」
「勿論!君にぴったり合う花を取り寄せてもらったんだ。これ、素敵でしょ?」
彼がそう言って、花瓶の花を見せてくれた。どうやら私が来てすぐ、新しい花へと差し替えたらしい(前の花は枯れてしまったと言っていた)。今度は、水色の花だ。正確には四枚の大きな花びらがあり、水色のそれらの中央部分にだけ白い線が入っているという神秘的な造形である。
「グラスエンジェル。硝子の天使っていう名前なんだ。花びらが薄くて透けているからとても脆く見えるんだけど、実は環境への適応能力が高くてね。どんな寒さや暑さにも耐えて花を咲かせることができる、凄い植物なんだよ」
窓から入ってきた春風に、そよそよと三本のグラスエンジェルがそよぐ。ふと、以前彼が話したことを思い出していた。この国の植物には殆どに花言葉がある――ならば、グラスエンジェルにもあるのだろうか。
「花言葉は、なんですか?」
私が尋ねると、彼は。
「……“親愛”かな」
今、少しだけ間があった。まるで何かを悩んだような間。どういう意味だろう、と私は首を傾げる。一瞬だけ、彼の瞳に寂しそうな色が宿ったように見えたからだ。
「どうかなさいましたか、フランソワ様?」
自分達の関係は、あくまで家主とメイド。そして、憎い敵国の人間とスパイという関係でしかない。いくら彼と話しているとほっとすると言っても、仕事は仕事だ。自分はそのために故郷に“育てていただいた”人間偵察機である。安い同情などするべきではない。いくら相手が見目良い、そして純粋で年若い少年であるとしてもだ。
こんな事くらいで、少しだけ胸が痛いような気がするなんて。完全にスパイ失格である。
「……ううん、なんでもない!やっぱり、この花は君が相応しいなと思って。絵、描かせてよ。君と話してると落ち着くんだ。今まで来てくれたメイド達の中で、一番年が近いし……なんだか、君は他の人と違う気がするというか。壁がない気がして、気分が楽なんだ。他の“若い人達”はみんな……僕じゃなくて、お父様のものだったから」
彼の物言いから、私はおおよそのことを察してしまった。彼の父親が、年若い少年少女をしょっちゅう連れ込んで色事に耽っていることを思い出したからである。それらの人物と、会話をする機会もあるのだろう。もしかしたら彼らの一部は、屋敷にほど近い場所に住んでいるのかもしれない。
しかし、彼らはあくまで父親の金と名誉が目当てで愛人の真似事をしているだけ。跡継ぎにもなれそうにない息子など、興味の対象にさえならないのだろう。それこそ、過剰にご機嫌を取る必要もないと考えるのも仕方ないことではある。態度が冷たくなるのも、無理からぬことではあった。
「……わたくしは」
余計な感情を持つべきじゃない、と分かっている。自分は最終的には、この少年さえも手にかけなければいけない立場なのだから。それなのに。
「わたくしは、フランソワ様の……“友達”でございますから」
要らぬことを言っている。わかっている。それでも。
「……うん!」
彼の、花が咲いたような笑顔を見ていると。とても突き放すような態度など、取れる筈がないのである。
「ありがとう、アイリス。いつか……二人だけの時でいいから。様付とか敬語じゃなくて、僕と話してくれると嬉しいな。これからも、どうぞよろしくね」
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