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硝子細工の天使
「アイリス・メルです。どうぞ、よろしくお願いいたします」
私は恭しく頭を下げた。私の殊勝な態度に気を良くしてか、恰幅の良い髭の紳士はにっこりと微笑む。
「うむ、下民らしい謙虚な態度だ、実に良い。今日から我が家のメイドとして、よく励みたまえよ。数ある貴族の中でも、我がフロワーズ家は有数の名家。仕えることができることを光栄に思うがいい」
「はい、旦那様」
貴族らしい貴族。自分達以外の人間は、全て塵芥としか思っていない典型だ。己の“貴さ”を褒め称えられることを喜び、下手に出ておだてれば分かりやすく機嫌を良くする男。それでいて、実際の能力の多くには疑問符がつく。――こんな奴が海軍提督というのだから、このグランテス王国も地に堕ちたものである。
二十五歳の私がメイドとしてこの家にやってきた理由は、単純明快。この、愚かな提督の男から、グランテス王国の情報を根こそぎ奪って始末すること。幼い頃から隣国・アリナ共和国でスパイとして鍛えられてきた私にとっては、可愛らしく大人しい労働階級のメイドを演じるくらい造作もないことなのである。
――馬鹿な男。
男に、下心があって自分をメイドに選んだということくらいわかっている。予めフロワーズ候爵の趣味趣向はがっつりと調べ済みだ。幼女趣味で少年趣味、大人の女性の場合はとにかく胸が小さくて童顔な女ばかり好むという悪趣味ぶり。さぞかし奥方との仲も冷え切っていることだろう。高慢で高飛車、社交界で評判の悪いヒステリー女に同情してやるつもりなど微塵もないけれど。
――私の身元もきちんと調べないから、こんなことになるのよ。ほんと馬鹿ね。今回の任務も楽に済みそうだわ。
屋敷を掃除するという名目で、内部を十分に散策し丁寧にマッピングしていく。一度来た道は忘れないし、間違えない。母国で、マップリーディング技術は嫌というほど叩き込まれているのだ。それこそ、特徴のない森の中でさえ、わずかな変化を見極めて来た道を戻ることができるくらいには。
フロワーズ候爵家には、二人の男子がいる。長男のフランソワ、次男のアリデールである。どちらもまだ年若い。フランソワは十五歳、アリデールはまだ十二歳。アリデールの方は、来年から学校に通い始めるという年である。貴族の子供は、初等部相当の年齢であっても学校に通わず、家庭教師をつけることがほとんどであったためだ。
とにかく、家の何処にいても不審がられないように、それでいていざとなったら彼らを上手く利用できるようにしておかなければならない。つまり、ほどほどに友好を深めておくことが必須。少しでもスパイの疑心を抱かれるようなことなどあってはならないからだ。
――アリデールは、今は自室で算数の勉強中であったはず。フランソワはどこかしら。
本来。貴族の家督を継ぐのは、長男の役目とされている。だが、フロワーズ候爵家の場合は、次男のアリデールが継ぐ可能性が極めて高いと言われていた。理由は単純明快、長男のフランソワが体の弱い少年であったからである。彼は生まれつき、心臓に大きな障害を負っていたという。外で自由に走り回ることはおろか、ほどんど自室から出ることもできないほどに。
そんな彼の唯一の趣味は、花を愛でることだと聞いている。彼の自室は、両親に頼んで持ち込んで貰った花が常に飾られているそうだ。
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