第五章「永瀬沼の恐怖」(日尾木一郎の記録)

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第五章「永瀬沼の恐怖」(日尾木一郎の記録)

    「美しい……」  緋蒼屋敷を目にして、思わず私の口から、感嘆の声が漏れた。  どこまでも続く長い塀と、敷地内の木々に囲まれた、立派な屋敷。今それは、沈みゆく太陽に照らされて、うっすら赤く色づいていた。まだ遠くから眺めているだけだが、むしろ距離があるがゆえに、引き立って鮮やかに見えるのかもしれない。近づくにつれて、風景画の世界から現実へと引き戻される。そして塀と木々に遮られて、いったん建物は見えなくなってしまった。  それでも塀に沿って歩くと、田舎村には場違いな風格のある門が、その口を開けているのに出くわした。屋敷の敷地の広さから考えて、いくつもの門があるはずだから、ここが入るべき場所なのかどうか、私にはわからない。それでも、探し回るよりは良いと判断して、その門から私は緋蒼屋敷の敷地に足を踏み入れた。どうやら正解だったらしく、そのまま道なりに進むと、屋敷の中央に辿り着いた。  建物の玄関自体も大きかったが、そこを真ん中と判断できたのは、玄関の大きさだけではなかった。入り口の横にある部屋で、村長の浜中(はまなか)大介(だいすけ)が窓から顔を出して、こちらの様子を見ていたからだ。村長は屋敷の中央部分に住んでいる、という緋山(ひやま)一義(かずよし)の言葉を、私はきちんと覚えていた。  村長は、私の顔を見た途端、わずかに頭を下げる。お辞儀や挨拶の(たぐ)いなのか、あるいは、別の意思表示なのか、曖昧な態度だった。特に、すぐに奥へ引っ込んでしまったので、余計に彼の意図がわかりづらかった。しかし彼が私の視界から消えていたのは、ほんの短い時間だ。今度は、屋敷の玄関から、彼が現れる。奥へ消えたのも、私を出迎えるためだったらしい。 「荷物は、部屋へ持っていってあります」  ぶっきらぼうにそれだけ言うと、彼は再び、屋敷の中へ戻ってしまう。案内してもらえるのだろうという私の期待とは裏腹に、彼は何も言わず、どんどん奥へ入っていく。それでも、何度か振り返って私に向ける視線は、まるで「ついてこい」と言っているように思えた。  村長に従って、私は歩き出す。村長は振り返っても、特に文句を口にしなかったので、私の行動は正解だったのだろう。  廊下は一直線ではなく、何度も角を曲がる形だった。先を行く背中を見失わないよう、追うのに集中していたら、もう方角などわからなくなってしまった。一応、屋敷に入るまでは、西日の向きから、東西を把握していたのに。  それでも、最初に歩き出した向きから考えて、屋敷の東棟を進んでいるという見当くらいは、私にもついていた。緋山一義の客人扱いなのだから、緋山家が使う東側に部屋をあてがわれるのは不思議ではない、と感じていた。  しばらくすると、一つの大きな部屋の前で、村長が立ち止まった。続いて、部屋の中に声をかける。 「大介です。一義さんのお客様をお連れしました」 「おう」  中から聞こえてきたのは、その一言だけ。存在感のある、野太い声だった。  村長が、部屋の障子戸を開く。特に「どうぞ」という言葉はなかったが、雰囲気から判断して、私は部屋へ立ち()った。私の後ろから、村長も続く。  広い部屋の真ん中には、布団が敷かれていた。一人の老人が仰向けに寝かされており、長患いの病人が暮らす部屋特有の、甘ったるいような異臭がする。この時点で、ようやく私は「ここは私が宿泊する部屋とは違う」と理解した。  村長が病人の右側に座るのを見て、私もそれに(なら)った。布団の主が、首を傾けて、私を凝視する。彼と見つめ合うことで、私は、この老人の正体を悟った。随所に刻まれた深い皺と、真っ白な髪。それを除けば、一義とそっくりなのだ。どう考えても、この老人が『緋山の御当主』、つまり緋山(ひやま)直樹(なおき)なのだろう。 「君が、一義の連れてきた探偵か」  直樹の言葉には、なんとも言えない重みがあった。その刺すような視線にも射すくめられて、私は何も答えられなかった。駐在所で浜中(はまなか)朝子(あさこ)から探偵扱いされた時には、簡単に「探偵ではなく探偵作家」と返せたのに。  直樹は、別に私の返事など求めていなかったらしい。肯定も否定も待たずに、言葉を続けた。 「直次(なおつぐ)良美(よしみ)も、殺されてしまった。このままでは、いずれ一義も殺されるだろう。見ての通り、わしは永くない。よそ者に頼むのは筋違いだが、一義が選んだ男だ。君に任せたい。よろしく頼む」  それだけ言うと、彼は目を閉じた。病床の直樹には、精一杯の発言だったのかもしれない。  特に合図もなく、村長が立ち上がって、障子戸を開けた。無言だが、村長の目は「もう立ち去れ」と言っているように見える。わざわざ私は、今の直樹の一言二言を聞かされるためだけに、この部屋へ連れてこられたようだ。 「わかりました」  そう言って、私は立ち上がった。今さらだが、これが私の、この部屋での最初の発言ということになる。  私たちが部屋から立ち去る間際(まぎわ)、直樹が村長の背中に声をかけた。 「村長。幽霊騒ぎの一件も、探偵に話しておいてくれ」  まずは『緋山の御当主』に目通りしたのだから、次は『蒼川の御当主』の部屋へ連れて行かれるのだろうか。そんな私の予想に反して、今度は、私自身の寝泊まりする部屋へと案内してもらえた。私は緋蒼屋敷全体の客ではなく、あくまでも緋山家の客人ということらしい。そして、その部屋への道すがら、直樹の言っていた『幽霊騒ぎ』に関して、村長は私に語って聞かせた。  ボソボソと一方的な喋り方なので聞き取りづらかったが、要点は理解できた。  屋敷の敷地内に、今では使われなくなった土蔵がある。その近くで幽霊が出た、と騒ぎになった。蒼川家の二人、珠美(たまみ)規輝(のりてる)が、ぼんやりした白い幽霊のような影を目撃したのだ。ちょうど、私が駐在所で木田(きだ)巡査の長話を聞いていた頃に起こった出来事らしい。ならば、私は駐在所に立ち寄ったおかげで、この騒ぎに巻き込まれずに済んだのかもしれない。一義は今頃、この件も「殺人事件に関係している」と判断して、調べているのではないだろうか。 「幽霊というと、普通は人間の霊なのでしょうが……。あれは、化け猫の霊なのではないか。やはり直次さんと良美さんの一件は、化け猫の祟りなのではないか。そんな声も出てきているくらいです」  私を部屋に案内した後、最後にそう言い残して、村長は立ち去った。  勝手な推測かもしれないが、私は、一義の真意を理解したような気になっていた。  彼は賢い男だ。列車で知り合ったばかりの信用できない私に、本気で『探偵』をさせるつもりとは思えない。むしろ一義自身が調査したいはずだ。ただし確固たる証拠が見つかるまでは、あくまでも秘密裏に調べたいのだろう。おおっぴらに捜査していたら、捜査状況が犯人に筒抜けになって、先回りされるかもしれない。犯人が、うっかり残してしまった痕跡のある場合、「次に調べられるのは……」といった具合に思い出して、消して回るかもしれない。それを避けるためにも、犯人の目を他へ向ける必要がある。つまり、私という探偵役だ。  そう、いわば(おとり)なのだ。それが一義から与えられた役目なのだろうと、私は判断していた。ならば、真面目に探偵活動をする意味もない。むしろ見当違いの方向で調べている方が、一義は喜ぶはず。正解へ向かってしまっては、囮役(おとりやく)にならないのだ。    こうした考えで私は、案内された部屋には長居せずに、とりあえず遊びに出かけることにした。田舎の村では大した娯楽もないだろうが、私は、水辺で自然と戯れるのも好きだ。だから旅の荷物の中には、本ばかりではなく、釣り具を一式入れていた。  道具を取り出しながら、ふと考える。ここまで聞いた話の中に、永瀬沼(ながせぬま)という地名が出てきていた。そこならば良美の事件を調べているように見えるだろうし、沼というくらいだから釣りも出来るだろう。  さいわい、私の部屋の近くにも小さな玄関口があったため、誰にも告げることなく、出入り可能な状態だった。そこから建物の外へと出ると、すぐ近くに、敷地を取り囲む塀があり、通用門らしき小さな扉もあった。その扉をくぐって屋敷の敷地から出たところで、私は一人の女性に出くわした。  すらりとした体型の美人だった。いや、一目見た瞬間「美しい」と思ってしまったが、客観的に考えると、美人は言い過ぎかもしれない。だが少なくとも、万人を惹きつける魅力を持った女性、という雰囲気だ。ふらふらと歩いていたが、そんな足取りにも関わらず、知的な空気を漂わせていた。 「あなた誰?」  声をかけられても、ぽかんとするだけだった。私は、半ば見とれていたに違いない。  彼女は私の返答を待たずに、何か思い出したかのように、自分で言葉を続けた。 「ああ、一義さんのお客さんね。何をしているの?」  にこやかな表情で、それが相応しい穏やかな声だった。彼女の笑顔に吸い込まれるようにして、私は間抜けな受け答えをしてしまう。 「永瀬沼へ釣りに行くところです。それで、あなたは?」  せめて『釣りに』ではなく『良美事件の調査に』と言うべきだったのに……。私の頭の中で後悔の念が暴れる間に、彼女は返事をしていた。 「幽霊を見て、気が動転しているの。こういう場合は、落ち着くまで、一人で歩くのが一番ね」  そう答える様は、のほほんとしており、とても動転しているようには見えなかった。これだけで会話は終わりのようで、また彼女は歩き出した。  (あと)を追いかけたい気持ちにもなったが、私は「永瀬沼へ行く」と言ったわけだし、彼女の「一人で歩くのが一番」という言葉もある。しばらくその場で立ちすくんで、彼女が立ち去るのを眺めていた。  なんだろう。素敵な女性の後ろ姿は、それだけで絵になる。  すると私の視線に気づいたのか、彼女が一瞬、振り返って、 「永瀬沼なら、あちら。まっすぐ道なりに進めば、見えてくると思うわ」  自分の進行方向とは真逆(まぎゃく)を指し示した。  彼女の親切心に応じる意味で、私は軽く頭を下げてから、くるりと背を向けて、歩き始めた。そのままかなり進んでから、一度だけ立ち止まって振り返るが、もう彼女の姿は見えなくなっていた。  そして、彼女が消えてから、ようやく気づいた。彼女の「幽霊を見て」という発言の意味を。  幽霊騒ぎの話の中で、目撃者は珠美と規輝の二人という情報があったはず。ならば、この女性こそが、蒼川(そうかわ)信子(のぶこ)の長女、葉村(はむら)珠美(たまみ)だったのだ。三十三歳のはずだが、とてもそうは見えなかった。  永瀬沼に到着した頃には、辺りも暗くなり始めていた。暗さのせいもあって、全くの泥沼に見えてしまう。もちろん沼だから、澄んだ湖面とまでは望まないが、もう少しまとまな水質を期待していたのに……。  珠美との出会い以来、まだ私は少しぼうっとしていた。だが、一匹の魚が水面から飛び跳ねたのを見て、自然に釣りを始めていた。  ここへ来るまで、雨の降った形跡なんてなかったのに、足元は雨後のぬかるみのようだった。とはいえ、少しくらい靴が汚れても気になる私ではない。出会ったばかりの一義には『あなたみたいな格好』と言われ、朝子からは『ヒッピー』扱いされるくらいに、色々と無頓着なのだ。  ある程度は気にするべきかもしれない、という考えも一瞬だけ頭に浮かんだが、かまわず私は、足を前に踏み出していた。  なんだろう。自分でも嫌になるくらい、ぼうっとしている。いわゆる『足が地につかない』という状態だった。いや、そこまで考えたところで、ふと気づいた。比喩表現ではない。文字通り、踏みしめるべき大地の感触がない。いつのまにか、深いぬかるみに右足がはまっていたのだ。  もちろん、すぐに足を引き抜こうとした。だが、抜けない。逆に、さらに沈んでいく。これが、話に聞く底なし沼というやつなのか。でも、まだ片足だけだ。大丈夫……。  そう自分に言い聞かせたつもりだが、内心では酷く焦っていた。そして、焦りがさらなる失敗に繋がる。右足を何とかしようともがいている間に、気づけば、左足も深いぬかるみに陥っていた。  もがけばもがくほど、沈んでいく。  沈めば沈むほど、心の奥底で、何かが忍び寄ってくる。  それは、はっきりとした死の恐怖。  こんなところで、私は死んでしまうのだろうか……。    
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