とある図書館司書の幸福論

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とある図書館司書の幸福論

麗らかな陽気が高窓から降り注ぎ、本の森を光が満たす。カラフルな背表紙が鮮やかに色を変えた。少しの埃っぽさに古い紙とインクの匂い、微かに香りを残す木の本棚。穏やかな昼下がりの図書館ほど、幸福を感じる場所はない。 「フィアーバさん、ちょっと手伝ってもらってもよろしいですか?」 恐る恐る、と声を掛ける彼女はかつていた図書館に幼い日から通いこんでいた少女。いやもう少女と呼ばれる年齢でなくなった妙齢の女性は、いまだにどこか純真さと幼さをその顔に残している。 「ああ、大丈夫だよシルフ。」 彼女の持っている数枚の書類を見て、おそらく書庫から本を出してくるのだろうとあたりを付けて返事をすればほっと安心したように息を吐く。どうも私に何かを頼むのが彼女は苦手らしい。確かに昔は私が図書館長で彼女は利用者だった。だが元いた図書館がなくなり、こちらの図書館に司書として働き始めた時点で私と彼女は同僚であり、私よりも先にこの図書館で働いていたシルフは私の先輩になる。圧倒的に私の方が年上で頼みにくいというのはあるのだろうが、あまり距離を取られると少々寂しい。この図書館で働く者は皆一様に病的にまで物語を本を愛する同志なのだから。 かつていた図書館に思いをはせる。 私が館長をしていた図書館は王国直属の王立図書館で国からの指示を受けて本を入れていた。上の方々はお伽噺を何の役にも立たない嘘の話だと鼻で笑い、書架はほとんど専門書や歴史書、技術書などの実学ばかりが並んでいた。それらが役に立つのは事実だ。けれどそれはお伽噺を軽んじる理由にはならない。もっと物語を置いてもいいのではないかと、上に掛け合った時言われたことが忘れられない。 「それで、作り話からは何が得られるのかね?」 私は、何も答えることができなかった。 得られるものは、たくさんある。想像力を豊かにさせること。リラックスすること。本来なら体験できないようなことを物語に飛び込んで体験できること。人の心を学ぶこと。たくさんある。 でもそれは、相手を納得させうるものではないことも、重々承知していた。 思うのだ。彼らとは人種が違うのだ。いや、生きる世界が違うのだ。まともに言葉も通じない。彼らにいかに私がその有用さを語っても理解されることはない。 現実ばかり見るやつは、夢見ることを忘れていることにすら気が付かないのだ。全く、愚かしいことに。 「フィアーバさん、どうかしましたか?」 「いや、ちょっと前の図書館にいたときのことを思い出したんだ。」 「あぁ、」 少しだけ懐かしそうに目を細める彼女につられ頬が緩む。 私たちの懐かしむ図書館は、もうない。 国が倒れ、緩やかに死を待つだけだった図書館は文学を重宝する隣国によって救われた。蔵書は皆こちらの国の図書館に移され、私たち図書館職員たちも司書としてこちらの図書館に召し抱えられた。本たちと職員は救われた。けれどあの図書館は国に残されたまま。誰もいない国に、からっぽの状態でおいていかれている。感慨もある。一時はあの図書館と、蔵書たちと共に死ぬつもりだった。けれど手を差し伸べられてしまえば、私たちは蔵書たちと共にこの国へ逃げてしまったのだ。がらんどうの箱だけが、夢の跡地のように取り残されている。 こちらの国は素晴らしかった。国民の誰もが物語を愛している。 本に始まり語り部、オペラ、ミュージカル、弾き語り屋、国中どこにでも物語が溢れている。私たちからすれば天国のような場所だった。そして図書館もまた素晴らしい、その一言に尽きた。二階建ての巨大な図書館には世界中の本という本を集めたかごとくずらりと並べられている。きっと一生かかってもこの蔵書たちを読み切ることはできないだろう。ありとあらゆる本が置かれているが、その中でも多いのが物語だ。 かつていた国で軽んじられた物語がどのジャンルよりも多く置かれていることにまず驚いた。王立の図書館と言えば実学書集められた小難しい場所、というイメージだったがこの図書館は違う。カラフルな背表紙の童話、絵本たち。本棚一杯に詰められた小説。前にいた図書館も本が多く本の森というにふさわしかった。だがこの図書館はきっとお伽噺の森だ。いっぱいに物語が仕舞われ小さな世界が整然と並ぶその様は、きっとこの世の美しいものをかき集めたかのような魅力があった。少なくとも私たちには。 何故こんなにも物語で溢れているのか。その問いを国民にすれば誰もが口をそろえて言う。 「陛下が誰よりも物語を愛していらしているからだ。」 以前いた国とはまるで違う。他でもないこの国の王が物語を推奨しているのだ。物語で溢れる図書館内も、納得だ。 陛下、ダーゲンヘルム国王は青年ともいえる見た目ながら辣腕を振るう。目的のためなら手段を選ばないその様は他国からすれば恐ろしいが国民からすれば頼もしい。政治面については苛烈ともいえる手段を取り、時に自らの気の赴くままに他国へ攻め入ることもある。けれど王という人でありながら彼は市井にも通じている。平民に身を窶し、なんでもない顔をして街に紛れ込むのだ。これが意外とばれない。何度もこの図書館へ訪れている彼だが、何のかんの大騒ぎになったことはない。 閑話休題。 「この国は本当に良いところだな。」 「ええ、本当に。」 心底嬉しそうに笑う彼女に私まで嬉しくなる。国を褒められることに喜ぶ彼女はきっともう身も心もこの国の一国民なのだろう。私がそうなるまでには少し時間がかかるのだろうが。 「この国に来られて、本当に幸せです。」 「それには同意するね。少なくとも私たちにとってこの国そのものが楽園と言ってもいい。」 私にとって前にいた図書館は宝箱で、楽園だった。だがこの国に来てみればレベルが違う。この国の全てが光輝いて見え、何をとっても満たされていた。 物語は本好きにとって幸福そのものであり、それで溢れるこの国は楽園に違いない。 「幸せですね。」 「幸せだね。」 うんうん、と頷きあい幸せをかみしめる私たちはさぞ滑稽なのだろうが、あいにくそれを指摘してくれる人間もいない。 薄暗い書庫の扉を開けると正しく無駄のない世界が広がる。本と本棚。それだけ。埃臭いのにどこか清々しさを感じる。 「こちらに掛かれている書籍を集めてくださいませんか。」 「了解。……伝承が多いみたいだが。」 「ええ、館長が以前伝説や伝承ばかり集めたコーナーを作りたい、と言っていたのでその準備だと思います。司書室にこの本たちを持って行ってそこから並べる本を厳選するんだと思います。」 「なるほど。」 渡された紙にはいくつか知っている伝承があったがそれでも半分知らないことが口惜しい。この国に来てまだそう時間が経っていないので仕方ないと言えば仕方ないのだが、知らない物語があるのが悔しいというのはもはや性だろう。 本棚の間をくぐり抜け、本を探す。手に取ったそれをその場で開き読みたくなる気持ちを何とか抑え本を集めていく。半分を集め終わったところで、欲望に負け手に取った本にのめり込んでいる彼女に気づき苦笑する。シルフは幼い時からあまり変わらない。好きな本があれば読み始めてしまいまるで周りの状況に気が付かない。初めて彼女の会った日も、兄と来たというのにそれを忘れお伽噺にのめり込み、迷子になり探されているという自覚すら私に声を掛けられるまでなかった。 一応仕事中なのだが、とも思わないでもないが読みふける彼女を見るのが好きで、私は何も言わず自分の作業を続行した。私の方が集め終わったら声を掛けよう。それから彼女の残った仕事を手伝っても遅くはないはず。シルフに対して甘い、と以前とある司書に言われたがきっとそれはみんな同じだ。苦言を呈した彼女自身、何かとシルフに甘い。本人に自覚はないようだが、前の図書館にいたときから何かとシルフに気を掛けていた。ここの先輩司書だって年若いシルフを妹のようにかわいがっている。どうせみんな可愛がっているなら、私が多少甘くても問題はないだろう。 「フィアーバさん……気づいていたなら声かけてください。」 「いや、あまりにも集中していたから声がかけづらかった。」 「欲望に忠実なのが嫌になります……、」 ほどなくして本が集まり彼女に声を掛けると夢から醒めたようにバッと顔を上げてから顔を青くしていた。やってしまった、と顔に書いてあり微笑ましい。罪悪感もあってか、半ば小走りで本を集める彼女は、やはりこの図書館に私より長くいることもあって仕事が早い。 積み上げた本を抱えて司書室へと向かう。時間があれば司書室でこれらが読めるだろうか、と思うが閑古鳥の鳴く図書館と違いこの国の図書館は常に賑わっている。本を読みふける暇はないだろう。暖かな日差し、静かな館内、惹かれる本をコーヒー片手に読む、なんて最高の幸福だけれど、それはきっと叶わない。本が好きな来館者と話をするのもほんと触れ合いながらの業務も楽しいのだが、今はどうしてもこの伝承達の魅力が勝ってしまう。 司書室について、改めて邪魔にならないとこでそれらの本を仕分けていると聞きなれた足音がした。 「かんちょ、フィアーバさん……!」 「もう館長じゃないな、ヘッジホッグ。どうした?」 騒いだり走ったりしてはいけない、とそれを律儀に守りたがる司書の彼女は私と共にこの国へ来た元部下の同僚だ。イヴ・ヘッジホッグ。馬鹿が付くほどの真面目な彼女の顔には焦りが浮かんでいるが、せかせかと歩くだけで走らないし、声も小声だ。ただ短い付き合いではない。何か切迫した事態になっているのだろう。不安げなシルフを横目に彼女の方へ行く。 「それがっ、二階のベランダから飛び降りようとしている方が……!」 「……は?」 思わず出た言葉はまともな意味をなしていないが私の心はその一文字で表現できる。 「飛び降り自殺しようとしている方がいる、ということでよろしいですか?」 「そうですけど何で貴女はそんなに落ち着いてるんですか!?」 「お前が落ち着けヘッジホッグ。二階のベランダなんて低い。飛び降りたところで死なんだろう。」 今の今まで気づかなかったらしくハッとした顔をする。相変わらずどこか落ち着きがないというか、パニックになりやすい彼女は少し恥ずかしそうに咳払いをした。 「と、とにかく二階に来てください。今館長が説得をしてるんです。」 「館長が行ってるなら私たちは行かなくてもよくないか?」 「万が一の時、図書館職員が真摯に対応した、という事実が必要なんですよ。」 外聞を気にするのは彼女らしい。本気で本だけが好きな人間が集まると外に対して興味がなさ過ぎて困るため、彼女のように周りの目を気にすることのできる彼女は重宝される。そんなことができるのはこの図書館内でもほんの数人しかいないのだから。事実隣にいるシルフは私と考えが近い。 カウンターに他の職員がいるのを確認してから司書室から出る。余計な仕事を増やすな、と言いたいが流石に自重する。言えばヘッジホッグから不謹慎だと叱責が飛ぶに決まっている。 二階のベランダに行くとすでに招集されたらしい職員と説得を試みる館長とベランダの柵の外に立つ一人の女性が見えた。ベランダの下には樹が生え、地面は芝生だ。落ちたところで大した怪我にもならないだろう。一歩離れたところから見るとなんとも茶番としか言いようがない。構ってほしいのか死にたいのか実際のところは知らないが、迷惑なことに変わりはない。なんにせよ、他所でやってくれ。少なくともこの神聖な図書館ですることではない。 何やらわめきたてる女の言うことを右から左へと聞き流し説得する職員の一人に紛れ込む。どうやら仕事で失敗するわ、恋人に振られるわ、料理をしていてやけどはするわと踏んだり蹴ったりだったらしい。全くもってどうでも良い。飛び降りるなら飛び降りろ。飛び降りないならさっさとやめろ。 「そのうえ好きだった作家さんが死んじゃうし、痛むために図書館に来たら全部借りられてるし……!」 「あー……、」 心底どうでもよかったのだがその言葉に一気に親近感がわく。私以外にも数人から同じ声が零れた。 作家とて人間だ。時が来れば死んでしまう。しかし読者には心の準備ができていない。下手すると完結していないシリーズがあったりして、そのときの無念さと言ったら筆舌に尽くしがたい。それは、ちょっとわかる……という言葉がそこかしこから上がる。いやはや国民性とは凄まじい。そもそもこの図書館に来る人間は多かれ少なかれ似たような気質を持っているともいえるのだが。 そうこうしているうちに女が飛び降りた。その瞬間職員の数人が下を見下ろし、数人が壁に掛かった時計を見た。飛び降りた女はやはり死ななかったらしく、元気な喚き声が下から聞こえる。 「仕事に戻るか。」 「そうですね。司書室から書庫に戻す本もありますし。」 「私は医師を呼んできます……。」 死んではいないが怪我はしているだろう。誰かが面倒事の後始末をせざるを得ない。不測の事態が起こったとき、どうしても社会性のある人間が動かざるを得ない。本当は私たちの仕事が死体のであろうヘッジホッグが恨めし気にため息を吐いた。 「こんなに幸せな国なのに、なんで死のうとするんですかね?」 「あれこれ理由を吐いていたが。」 「好きな作家さんが亡くなるとショックですけど……、自殺しようとはなりません。」 生死に関して彼女は思うところでもあるのだろう、不満げに口を尖らせた。 「私たちにとっての幸せが、万人にとっての幸せとは限らない。」 物語の側にあれることが最大の幸福だ。少なくとも私たちにとって。 だが人は一人一人幸福の在り方が違う。腹いっぱいに食べ物を食べることが幸せの者もいる。友人や家族と過ごすその時間こそが幸せだという者もいる。歌を歌っているときが一番の幸福だという者もいる。 幸福は決して、一緒くたには語れない。そんなことを語れるほど、私たちは幸福に詳しくなく、人に詳しくはない。幸不幸の度合いが他人から計れないのと同じように、幸福の中身を本当の意味で赤の他人が理解することはない。 「必要なのは他人の幸福を考えることでも万人の幸福を考えることでもない。」 「……何が必要だとフィアーバさんは考えるんですか?」 素直な目を向けてくる彼女は餌を欲しがる雛鳥によく似ている。きっと彼女は誰に対してもそうなのだろう。ありとあらゆる知識を、考えを自分のものにしようとする。純真で欲張りな好奇心。 「幸福に生きるためには、自分にとっての幸福だけ知っていればいい。他人の幸福にまで頭を悩ませるのはただの傲慢だ。」 幸福なんて、誰にも分らない。わかるのは自分にとっての答えだけだ。理解できると思い込むことは傲慢で、だたのはた迷惑な妄言だ。自分だけが知っていればいい、そんな幸福だってたくさんある。 しばらく考えこむように黙り込んだ彼女を見ながら微笑ましく思う。他人のことを考えすぎて自分のことが疎かになる、と彼女を寵愛するこの国の王がいつかにぼやいていたが、先程の様子からしてその他人は何も万人というわけでもないらしい。 「……わかったような、わからないような。」 「どちらでもいい。私の言うことが答えというわけではない。私の言うことはあくまでも私の答えであり私の幸福論なのだから。」 「……少なくとも、たぶん今の私にとっての幸福は、暖かい図書館で紅茶を飲みながらさっきの伝承の続きを読むこと、ですかね。」 その答えに思わず吹き出しそうになった。正に同じ穴の狢と言わざるを得ない。本に関して考えることは同じだ。 彼女にとっての幸福は私にとっての幸福は違う。 本に関係するところは同じだが、人は貪欲だ。もっともっとと欲しがってやまない。生きれば生きるほど、大切なものは増え続ける。あれもこれも、と望んでばかり。 でもそれは決して悪いことではない。増えれば増えるほど、失った時悲しく思うだろう。けれど増えれば増えるほど幸せを感じる瞬間も増える。それは彼女の時を、人生を豊かに彩る。彼女はより幸福を感じることになる。 シルフには、有り余るほどの幸せを与えようとする人間がたくさんいるのだから。 「……本を読む時間は難しいが、紅茶を淹れるくらいならしよう。」 お節介なのは重々承知。しかしながら私は彼女の幸福を願おう。 どうか本を愛する同志が幸せであるようにと。
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