1冊目 考える葦

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1冊目 考える葦

 わたくしは、捨てられました。  シルフ・ビーベルは親から、婚約者から、国から捨てられました。 捨てられたわたくしは、王国の兵たちに小さな檻に入れられて、国はずれにある森の奥の奥、ダーゲンヘルム王国の近くの森に置いて行かれました。ダーゲンヘルム王国といえば、怪物の住まう国です。領主であるダーゲンヘルム王は夜な夜な国外を彷徨っては乙女を食い荒らすという噂です。足の先から頭の先まで、臓腑から骨まで余すことなく。そうしてダーゲンヘルム王は何千年も生き続けているのです。  そのような国の傍の森に、檻に入れられ取り残される、ということは、わたくしの命はすでに風前の灯なのでしょう。  真っ暗な森の中、一人檻越しの闇を見ていました。冷えた檻は触れた場所から体温を奪い、申し訳程度の襤褸は吹き付ける風をよけることもままなりません。 なぜわたくしが、これほどの目に合わねばならないのでしょう。  わたくしシルフ・ビーベルは、ラクスボルン王国この公爵令嬢でありました。公爵家の二子で、年の離れたお兄様、仲の良いお母様お父様と、平和に暮らしておりました。公爵家の令嬢として、品位を保ち、家名に相応しい淑女となるべく教育を受けてまいりました。勉強は大変でしたが、未来の自分のため、家のためを思えばさして苦にもなりませんでした。  ラクスボルン王国の王子であるミハイル・ラクスボルン様が8つを過ぎた年の頃、彼の方の婚約者選びが始まりました。婚約者候補は皆、家柄、地位、品位をもった令嬢たちでした。そして王家の血縁にあたる公爵家のわたくしが候補として選ばれるのも、順当というにふさわしいことでした。  しかしながらそのような名誉をいただきながらも、無礼ながらわたくしは結婚にも、ミハイル様にもほとんど興味はございませんでした。もちろん、家名を汚さぬよう、彼の方に無礼のないよう、相応の振る舞いをいたしておりました。けれどわたくしにとって一番の願いは、より多くのことを知ること。ただそれだけでした。  お父様やお母様は、家の発展が、公爵家の硬き盤石さが第一であるとおっしゃいます。しかしわたくしにはとてもそうは思えませんでした。力を持ちすぎる者は、いずれ地に落ちることになります。上を見すぎる者は、足元の崩壊に気づくことができません。それは歴史からも学ぶことのできる、事実にございました。 足ることを知る。これこそもっとも賢い選択であると、わたくしは思っておりました。  わたくしの願いは、王子と結婚し国母となることではございません。分不相応な願いでしたが、叶うのであればわたくしは、王立図書館の司書になりたかったのです。この国の全ての書物が、知恵が、歴史が、思想が集まる至高の場所。決して叶うことはないと知っていました。わたくしの歩むべき未来は決まっていました。それでも、夢見ることだけは自由であると。  ただ、書物を愛でたかったのです。  王子も、名誉も、地位も、お金も、寵愛も、望んではおりませんでした。 婚約者候補としても教育を受ける中でも、わたくしは人の目を盗みながら平民に身を窶し王立図書館に足を運んでおりました。図書館にいること、それがわたくしにとって唯一の幸せでございました。  その幸せに転機が訪れたのは、ある休日の昼下がりのことでした。 王立図書館の奥には、ひっそりと隠されるようにお伽噺の本だけが収められた本棚がありました。いつものようにそこで一人、本を読んでいましたがふと本に影が差したのでございます。 「ねえ、それおもしろい?」 一瞬息を詰めました。今までここで本を読んでいるとき誰かに話しかけられたことはありません。そしてわたくしの身分を知らぬが故でしょうが、こうも気安く声を掛けられたこともございませんでした。 「はい、とても」  本来なら、無礼者、と言うところだったかもしれませんでした。しかし公爵令嬢でも誰でもないわたくしに親し気に声を掛けてくれたこと、読んでいる本に興味を持ってくれたことが、本当にうれしかったのです。  彼女の名前はカンナ・コピエーネと言いました。元は平民の身分で、家が爵位を賜ったばかりの男爵令嬢でございました。  わたくしは身分と本名を隠しながらも、カンナ嬢と図書館で何度も会いました。図書館にいるときだけ使う偽名、シェルシエル。古い言葉で探求者を意味するその名で彼女に呼ばれることは喜ばしくあり、同時に騙してしまうような後ろめたさも感じました。 誰も知らない図書館での逢瀬、お互いにおすすめの本を教えたり、同じ本を読んで感想を語り合ったりしました。そしてときに彼女はわたくしの知らない物語を語り聞かせてくれました。『シンデレラ』『白雪姫』『千夜一夜物語』『竹取物語』など、彼女の語る物語は聞いたこともない彩り豊かで輝くもので、とても胸が躍りました。 本当に、楽しい楽しい、時間でした。 それからしばらくして、わたくしの王子との婚約が決まりました。 最初から知っていました。わたくしのような身分の人間が、女性が、王立図書館で働くなど到底許されない話だということを。ささやかな夢は、夢のままだと言うことも。 何もミハイル様のことが嫌いというわけではございません。ただ、気が進まないと言うだけで。わたくしの意思など、一匙すら酌まれることはないのですが。 気が乗らないとしても、そうはとても申し上げることはできません。わたくしは表面上何らかの問題を起こすこともなく、婚約者に相応しい行いを、発言を、振る舞いをしておりました。  しかし一変する出来事が起こりました。それは他でもない、わたくしの友人であるカンナ・コピエーネ男爵令嬢の学園の編入でございました。当初カンナ嬢はわたくしの学園にはおらず、平民と同じ学園に通っていたのですが、男爵家が力を増すに伴い、彼女もわたくしたちの学園に編入なさったのです。  わたくしは喜びました。しかし同時に不安にも思いました。わたくしの身分が知れたら、離れて行ってしまうのではないかと。平民で物語が好きなシェルシエルが、王国の最上階級に次ぐ地位にいるビーベル家の娘だと知ったなら、彼女はわたくしに失望してしまうのではないかと。  それは杞憂でした。 「シルフ様っ!一緒にご飯を食べませんか?」 「シルフ様、同じ授業を取ってらしていたのですね!」 カンナ嬢は何事もなく、気軽にわたくしに声を掛けてくださいました。 それがとても、うれしかった。 「カンナ様、喜んで」  わたくしを通じて、カンナ嬢はミハイル様とも交流を持ちました。わたくしはこれを喜びました。不謹慎ながら、カンナ嬢がミハイル様と話している間わたくしは彼の相手をしなくて済むのですから。押し付けるようで申し訳なくも思っていましたが、幸い誰にでも好かれる彼女はミハイル様ともうまくやっていけているようで。安堵しながらわたくしはその時間を図書館で過ごす時間に充てました。  なにも考えず単純に。  ああしかし、わたくしは愚か者でございました。  人間は考える葦である。  考えぬ葦は、ただただ枯れ果て、塵となる。  それをわたくしは忘れていたのでございます。  気づいたときには、何もかも遅かったのです。  持っていたものが、この手からこぼれていくのは突然のことでした。  王城で度々行われるパーティー。煌びやかで絢爛な会場は、その日何かが違いました。人の目が、囁きが、皮膚を刺すように空気を漂っていました。ひしひしとそれを受けながらも、婚約者である王子、ミハイル様の傍へと行きました。 「シルフ、いやビーベル嬢。君は賢いと思っていたのに、見損なったぞ!」  しかしわたくしを迎えたのは嫌悪のこもった言葉と、侮蔑の視線でした。 「ミハイル様……?それはどういう、」  「気安く呼ぶな!いまだしらを切れるとは随分と面の皮が厚いのだな!」  「それはそうでしょう。今まで素知らぬ顔で貴方様の傍らにいたのですから、あの女は」  彼の方はわたくしの疑問に答えることなく罵声を浴びせました。いつも隣に控える宰相子息もまた、わたくしを非難がましく見ておりました。  二人だけではございません。王城のパーティー、人という人、貴族という貴族が、わたくしたちを見ていました。ざわめきがさざ波のように広がります。  わたくしは囲まれておりました。その誰もが同じ学園に通う権力者、政治家の子息たち未来の彼らを思えば震え上がるような面々。皆一様に、わたくしを蔑んでおられるようでした。まるで舞台に無理やりあげられたようで、戸惑い、喉の奥がひりつきました。わたくしだけが、台本もセリフも教えてもらっていないかのような針の筵でした。 「わたくし、身に覚えが、」 「嘘言わないで!だったらどうして私にこんな仕打ちをなさったのですか!」  震える声にかぶせてきたのは、聞きなれた声でした。優しく微笑み、穏やかに物語を紡ぎ、鈴を転がすような声で笑う、暖かい声のはずでした。  大切な友人の声でした。 「カ、カンナ様……?どうして、」 「いい加減往生際が悪いぞ、ビーベル!貴様がカンナに行ってきた嫌がらせ、いじめ、まさかまだ知られていないと思っているのか!」 「なんのことですかっ……?」  わたくしが口を開けば開くほど、逃げ場がなくなっていることに気がつきました。苦し紛れに出た声を、ここの場の方々は嘲笑うようで、罪人を糾弾するようで。しかしわたくしには状況が全く飲み込めないのです。 なぜ、わたくしがカンナ嬢をいじめなくてはならないのでしょう。彼女はわたくしの数少ないお友達です。学園に来る前からの、唯一無二の、友人です。 「とぼけるな!カンナの持ち物を捨てたり、暴言を吐いたりするだけに飽き足らず、昨日は階段からカンナを突き落としたそうじゃないか!カンナは死んでもおかしくなかった。貴様がしたことは大罪にあたる!」 「まさかそんなっ!わたくしがカンナ様を害する理由がございません!」 「理由ならあるだろう、シルフ・ビーベル。カンナ嬢が婚約者であり、王子であるミハイル様と懇意にしているから、嫉妬した。これ以上の理由があるか?」 「嫉妬なんてっ!」  嫉妬なんてするはずもありません。むしろわたくしは喜んで殿下をカンナ嬢に差し出していたのですから。けれど流石にそれは決して申し上げることができません。 「……あくまでも否定するのだな。ではビーベル。貴様は昨日の夕方どこにいた?」 「わたくしは王立図書館におりました!」 「嘘っ!だってあなたは昨日私を学校の階段から突き落としたではありませんか!」 「カンナ様っ、なぜっ、」  わたくしの声は、よりにもよってカンナ嬢によって遮られました。  なぜ、カンナ嬢が。カンナ嬢なら、放課後ひっそりと図書館に通っていることは知っているはずなのに。彼女だけは本当のわたくしを知っているはずなのに。  「昨日の夕方、シルフ様は私を人気のない校舎に呼び出したんです。公爵家の方の言葉を無視することも断ることもできなくて……。それで一人で私が行ったら、彼女に酷いことを言われて、階段から突き落とされたんです」  悲壮感溢れる声色で、彼女は手足に巻かれた包帯を見せました。痛々しいそれに、周囲からは気遣うような言葉やため息がこぼれます。  ここにいる誰も、カンナ・コピエーネ嬢が嘘をついているかもしれない、などと疑いもしませんでした。 「ビーベル、吐くならもう少しまともな嘘を吐くのだな」 「嘘なんかじゃっ、」 「だって、」  わたくしは凍り付きました。まるで魔法にかけられ全身を詰めたく鈍い鉛にされてしまったようでした。  このとき初めて知ったのです。絶望とはとても冷たいもので、足元から浸すように心を溺れさせていくものだと。  「高貴な公爵令嬢が図書館に通ってるわけがないじゃないですか」  この言葉で全てを悟りました。悟らざるを得なくなりました。  信じたくなかった。信じていたかった。これは何かの間違いなのだと。  しかし理解してしまったのです。  わたくしは友人であったカンナ・コピエーネ男爵令嬢に嵌められたのだと。 だって彼女だけなのです。わたくしが、身分を偽り、偽名を使い、シェルシエルとして王立図書館に通っていることを知っているのは。 たとえわたくしが図書館を利用した履歴を探しても、全く出てこないでしょう。ずっと前から平民のふりをしていたのですから。 「これ、実は偽名なの」 「そうだったの?」 「ふふ、秘密よ。誰にも言っちゃいけないわ」 「もちろんよ。大事なあなたのことだもの」 カンナ嬢。貴女はそう言って微笑みましたね。あれは、愚かにも秘密を告げたわたくしへの嘲笑だったのですか。  わたくしが図書館にいたことを証明する方法が何もないことを、彼女は知っていました。だからこそ、勝利を確信しているのでしょう。  ああ、冷え切った身体で見ればよくわかります。悲痛な表情を浮かべるその口角が、上がっていることに。  ええ、ご機嫌なのでしょう。決して短くはない期間、彼女はわたくしを嵌める策を練っていて、馬鹿な獲物が見事に罠にはまったのですから。  友達ごっこに舞い上がっていたわたくしが、茫然自失としている姿は、さぞ滑稽なのでしょう。  わたくしを囲み口汚く糾弾する子息たち。婚約者、いえ元婚約者はカンナ様を慰めるように肩を抱いていました。皆、何年もの交流があったにも関わらず、誰もわたくしの隣に立ってくれる方は、いませんでした。  人と関係を築くことが得意だとは言えないわたくしでも、時間をかけて彼らと関係を作ってきたはずです。将来国政に関わるであろう者同士、共に切磋琢磨してきたはずです。  わたくしが時間をかけて築き上げてきたものは、たった一人の少女の嘘で簡単に瓦解してしまうものであったと、信じたくはありませんでした。  「ああなんて醜い娘だろう」  「嫉妬心であんな無垢な子を殺そうとするなんて」  「前々から彼女は怪しかった。いつも静かにしているからこそ腹の底で抱えるものがあったんだ」  「惚れた腫れたで激情に走るような女、妃になんて向いてない。あんなのが国の上に立つかもしれなかったなんて、まったく恐ろしい」  「この期に及んで謝罪の一つも出てこない。悪魔のような娘だ」  この会場に入ったときに抱いた違和感の正体はわかりました。これから行われる悪女の断罪劇。石を投げてもいい相手、自身が正義側に立っているという高揚感。それは剥き出しの悪意でした。 恨みも、湧いてきませんでした。怒りも、姿を見せませんでした。 あったのは諦念と微かな幸福の残滓でした。 彼女にその気がなくても、わたくしにとって、彼女と過ごした図書館での時間は、まぎれもない幸せだったのです。たとえそれがコッペリアの喜劇だったとしても。 そこには確かに、わたくしの望んだ慎ましやかな幸せが、あったのです。 今まで着たこともないみすぼらしい服を着せられ、息苦しい首枷を付けられ、重い足枷を付けられ、わたくしは牢の中から告げられる言葉をただただ受け取りました。 わたくしとミハイル様の婚約は破棄されました。その代わりにカンナ嬢がミハイル様と婚約されたそうです。 ビーベル公爵家から、わたくしの名が削除されたそうです。公爵の名に、傷をつけたのです。上を見るお父様やお母様のことです、きっと邪魔になる娘と一刻も早く縁を切りたかったのでしょう。  わたくしは、類稀なる優しさを持つカンナ嬢のおかげで死罪にならずに済むそうです。未来の妃を殺そうとした大罪に対する罰が死罪ではない、というのは寛大な措置でしょう。嫉妬に狂った公爵令嬢というレッテルはその真偽に関わることなく、外されることはないのでしょう。 あの日から何日たったのでしょうか。突然地下牢の扉が開きました。眩しい扉の先に、カンナ嬢がいるのを、わたくしは格子越しに見ました。冷たい石の床に座り、わたくしはカンナ嬢を見上げます。 「ここで殺されないことを感謝することね」 唇から零れた声は、わたくしの知っている彼女とは、とてもかけ離れていて。固く冷たく、どこか気取ったような薄っぺらいものでした。 「知ってる?白雪姫の悪い魔女は焼けた鉄の靴を履いて踊りながら死んでいくの。シンデレラの継母と義姉たちは白い鳥に目を潰され身体中をついばまれるわ。三匹の子ブタを食べようとした狼はスープにされる。桃太郎にでてくる鬼は桃太郎に殺される」 格子の間から、彼女はわたくしの頬を愛おし気に撫でました。 ええ、知っています。彼女は愛おしんでいるのです。愚かで何もできず、これから死んでいく憐れで愚かなわたくしのことを。 「知ってるでしょ?だって私が教えたんだから。ヒーローとヒロインが成功して、それを邪魔した悪者は、死んでいくの」 「……ええ、知ってますわ。貴女のお話は、いつも楽しく素敵でした」 「いいえ、貴女はまだ知らないことがあるの、シルフ・ビーベル」 彼女は本当に私の知っている彼女なのでしょうか。 陽だまりのような笑顔を浮かべるカンナ・コピエーネ嬢は、どこへ行ってしまったのでしょうか。 目の前の彼女は顔を愉快気に歪めていました。美しさのかけらもなく。紛うことなき、「悪者」の顔でした。 「最期に良いお話を教えてあげる。ヒロインの邪魔をする悪役令嬢は、婚約破棄されて、皆の前で断罪されて、それから国外追放されるのよ」 言われずともわかりました。彼女がヒロインで、その邪魔をしたのがわたくし、悪役令嬢なのでしょう。 けれどわたくしが、何をしたというのでしょう。 「さらに詳しく言うとね、ヒロインのカンナ・コピエーネは王子、ミハイル・ラクスボルンと結婚するの。暴虐で高飛車な悪役令嬢シルフ・ビーベルは、隣の国の怪物に食べられるのよ。それがトゥルーエンド。最上で唯一のエンドよ」 「隣……ダーゲンヘルム王国、」 「怪物の住まう国。国外追放にうってつけじゃない。……貴女は役者として最悪だったわ。シナリオ通りに動かない。予定が狂っちゃったじゃない。でも、貴女がわたしを信用してくれて助かったわ。おかげで最高のラストだったもの。あるはずのなかったシーンだけど、」 彼女は、笑う、嗤う。 「あんたの絶望顔。最っ高に笑えたわ」 わたくしの友人は、もういない。 「あんたは存在が罪。罰も必ずついて来る。悪役令嬢として生まれたのが運の尽きね。ご愁傷さま」 ご愁傷さま、なんてかけらも思っていないでしょう。 彼女は機嫌よく、牢から去って行った。  わたくしの存在が罪だというなら、わたくしはどうすればよかったのでしょう。  わたくしは、どうすれば幸せになれたのでしょう。  彼女の言葉は、まるで呪いのようにわたくしの身体にまとわりついて離れませんでした。 それから数日後、彼女の言った通りわたくしは怪物の住まう国、ダーゲンヘルム王国の森に一人、置いていかれたのです。  暗い森が闇に沈みます。強い風が吹いて、どこからかともなく獣の唸り声が聞こえてまいります。 怪物の住まう国。この世のどこよりも死に近い森。 正にここは、黄泉の入り口なのでしょう。わたくしを喰らう怪物が、断罪の鬼。まるで物語のようです。ここまでがきっと、カンナ嬢の描いたシナリオだったのでしょう。 できることは、何もありません。わたくしはただ檻の中で断罪の鬼が来るのを待っていました。 わたくしが何をしたわけではありません。ただ、『悪役令嬢』として生まれたのが、いけなかったのでしょう。 わたくしは悪役だったのでしょうか。わたくしはカンナ嬢に何をしたのでしょうか。どうすれば、わたくしは『悪役令嬢』にならずに済んだのしょう。答えてくれる人はいません。彼女がヒロインだというなら、それで構いません。彼女がミハイル様と結婚なさるなら心からの祝福を贈りましょう。ここが彼女のシナリオの上だというなら、どうしてページの端にすらわたくしを置いてくれないのですか。主役などに興味はありません。脚光など望みません。わたくしは、ただ生きることも許されないのでしょうか。『悪役令嬢』であるがために。 檻の中から手を伸ばしますと、格子の間から腕は出せますが、とても逃げ出すことはできません。することがなく徒に手を伸ばしていると、小さな枯れ枝が指先に触れました。 ここから助かる気は、致しません。しかしながら一縷の望みを抱くことはどうか許していただきたい。仄かにさす月明りを頼りに、わたくしは地面に文字を書きました。 どうか善良な人間が、わたくしを拾ってくれるよう。  公爵令嬢でも、罪人でも、悪役令嬢でも、誰でもないわたくしを。 ******** シルフ・ビーベルを置き去りにした翌日王国兵数人は、様子を見にダーゲンヘルム王国の森の側へ訪れた。 本当に怪物に食われたか、否かを確かめに。もし生きているのであればその場で殺すことになっていた。 しかしその手間はいらなかった。 「これはっ……!」 「ダーゲンヘルムの怪物……実在したのか」 シルフ・ビーベルが入っていた檻は無残に壊されていた。外から壊されたようで、鉄の檻は大きく歪み、格子はバラバラにされていた。血の一滴も、残ってはいない。 シルフ・ビーベルは、ダーゲンヘルムの怪物により、血の一滴、髪一本すら残さずに喰われた。そう王国へ報告がなされた。  シルフ・ビーベルは食い殺された。疑うものは、誰もいなかった。
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