Midsummer Daydream

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 夢を見ていた。長い長い夢。甘いばかりのものではなかったし、その夢や理想からはあまりにも遠かったのだけれど、でも確かに、真下が望んで見た夢だった。  「……今日は、話せそうですか?」  病室の窓から見える空は夏の海を映したような青さで、窓枠で切り取られたカンバスの半分以上を白く膨らんだ積乱雲が被っていても尚、見るものに強く、その青を印象づける。これで向日葵でもあれば完璧なんだけどと、真下は思う。夏の絵としてこれ以上完璧なものがあるだろうか。絵の具が欲しい。もう3、4日連続で頼み続けているのだが、誰も持ってきてはくれない。入院初日の夜、窓から飛び降りようとしたのがいけなかったのだ。油彩がいいと言ったのは別に、飲んで死のうとかそういう意図はないのに。ただ、使い慣れた画材が油彩だからというだけ。後はそう。油彩ならば、あの窓に直接色を塗ることもできるんじゃないかという気持ちも、少しある。多分、というか確実に、酷く怒られるのだろうけれど。  保護された時ー真下はこの“保護”という言葉がいまいちしっくり来なかったのだがー真下の目下の問題は極度の脱水で、内科に入院になった。ただ、その日の夜、数年ぶりの外の世界に混乱した真下はパニック状態で、どうにかしてここから逃れなければ、家で天城をまたなければと、その一心で五階の窓から飛び降りようとし、たまたま巡回に来たナースにすんでのところで止められ、直後には精神科病棟に転棟になった。自殺企図と見なされたのは、その時の真下が普通でなかったからで、止めようとするナースを振り払う間、言葉らしい言葉は一つも出ず、悲鳴のようにただ天城を呼び続けたせいだった。天城、天城、天城!精神科医はPTSDだと言うけれど、そうでは無い。天城が恐ろしいから、あの家に戻ろうとしたのではない。  真下はくるりと振り返り、眉根を寄せて困った表情を浮かべた女性に、あの、と話しかけた。 「色紙はダメですか?」 「……色紙?」 「絵の具がダメなら色紙……折り紙でもいいです。はさみはどうせダメだろうから、ちぎり絵にしようかな。あぁでも、のりもダメですか?」  でんぷんのりならいいですか?第一俺、全然死にたいなんて思ってないんですよ。本当に。  真下がすらすらと言う間、彼女はずっと、困った顔のままだった。そうして、折り紙とのりは先生に聞いてみないとと、他の人たちと同じ言葉を口にした。結局これだ。堂々巡り。真下は落胆からため息をつき、再度視線を窓の外に向けた。  「……真下さん、」 背後から、彼女の呼びかけが追ってくる。彼女は心理士だと言っていた。警察の所属なのか、病院の所属なのかは知らない。彼女は話してほしいと言う。真下と、天城のことを。それが真下のためだと言うが、意味がわからない。話せば俺が楽になるなんて、そんな偽善者じみた言い回しをするから余計、話す気がなくなる。聞きたいなら聞きたいと言えばいいのに。そのほうが、ずっとマシだ。胸糞悪い偽善に俺たちの関係を汚されるより、ずっとマシ。  「……何を、聞きたいんですか?」  窓の外に目を向けたまま言う。背中の気配が少し、緊張するのが分かった。彼女がここに通い始めて一週間。彼女の問いに意味のある答えを返したのは、これが初めてだった。  「……話せる範囲で、何でも」  「なんでも?別に目新しい事は何もないと思いますよ。知ってますよね?真下賢斗は十五歳の時に天城孝幸に誘拐されて、それから八年間彼に軟禁されていて、三週間前に天城が自首して、天城の家にいた俺はその日のうちに保護された。そうですよね?」  それで全部です。それ以上でも以下でもありません、と真下は締めくくり、口を閉じた。背後の彼女は、何も言わなかった。  それで全部だ。起こった事実としては、それで全部。それ以上でも、以下でもない。事実はそれだけ。  賢斗、と天城が呟いた。あれは確か、警察が家に来る1週間ほど前だった。賢斗、ごめんな。天城は痩せた指で、真下の頭を優しく撫でた。その日は天城の仕事が休みで、二人で一日中家にいた。夕方。夏の夕焼けは血のように赤く、その赤はガラスを透過して部屋に流れ込み、白い絨毯を緋色に染めていた。部屋の真ん中に置かれた足の低い二人掛けの座椅子に天城は座っており、真下はその足元で、心地よい手のひらの暖かさに感じ入っていた。穏やかな時間だった。二人きりの世界に流れる、いつも通りの、穏やかな時間。けれどもあの日、天城の視線は真っ暗なテレビの画面上にあり、その瞳は現を写してはいなかった。見落としてはいけないその差異を、真下は気づいていて見過ごした。見過ごすしかなかった。見せかけの穏やかさの下にあるのは、ギリギリの均衡だった。瞬きですら崩壊を招きかねない、ひどく不安定な均衡。天城は穏やかな口調で続けた。ごめんな。オレはもう、お前と一緒にはいられない。どうして?どうしてと真下は尋ねた。天城は悲しげに笑った。分かったんだ。お前とオレは違うって。だからもう、オレはお前を閉じ込めてはおけない。髪に触れた手が小刻みに震えていた。漆黒を宿した天城の目は、酷く潤んで艶めいており、真下は彼が泣くのかと思った。  ー……同じだよ  天城を泣かせたくなくて真下はそう言い、髪を梳く指先をそっと握った。細くて冷たい、天城の手。同じだよ。俺とあんたは同じだよ。俺はあんたに救われたんだ。地獄から救ってもらった。だから、死ぬまでついていくと決めたんだよ。死ぬまであんたのそばを離れないって、誓ったんだ。  ー……違うよ  有無を言わさぬ、確とした口調だった。そのギャップに真下は驚く。普段の天城は、もっとふうわりと話す。最近は特にそうだった。天城にはもう意思はない。何も求めず、何も拒まず、あるがまま。全てを諦めてしまった彼の目が、ただ一つ映すものが自分だった。細身のスーツですら生地が余るほど薄い肩、折れそうに細い首や腕、そうして年々萎んでゆくように見えた男の中にまだ、十五の年、傷だらけの真下の腕を引いたあの青年の片鱗が眠っていたことに、真下は微かな喜びを覚えて口元を綻ばせた。死にゆくばかりと見えた花の中に、小さな小さな蕾を見つけた。そんな心地だった。けれども。続く言葉は真下の望むものではなかった。  ーオレとお前は違うよ。お前は大丈夫だ。大丈夫だったんだ。多分、最初からずっと。お前は1人でも大丈夫だった。オレなんかいなくても、お前は立派に大人になれた……オレはお前を助け出したつもりだったけれど、実際は、オレはお前の邪魔をしていただけだったんだよ。  お前に、オレは必要なかった。  その言葉が、耳に届いた瞬間。カッと頭に血が上り、真下の視界は真っ赤に染まった。喜びが、激情の渦に巻き込まれて霧散する。許せない。その言葉だけは、どうしても許容できない。頭蓋の中で、火花が散った。  ー……っ!  咄嗟に腕を掴んで、天城の身体を乱暴に引き倒す。ソファの上にそのまま押し倒し、覆いかぶさる。驚いた天城が目を見開いてこちらを見た。自分の突発的な行為に驚いたのは真下も同じで、天城のこぼれ落ちそうに見開かれた眼の内に映り込んだ自身の表情もまた、驚きに満ちていた。この八年間、真下の目に写るただ一人の人間であったはずの彼は、見下ろすとまるで別人のようで。柔らかなソファに縫い止めた両腕のあまりの細さに慄きながら、真下は震える声で告げた。  ー……俺には、あんたが必要だったよ  必要だった。ずっと。安らぐ声も、癒しの手も、天城だけが持つものだった。天城以外、だれも助けてはくれなかった。両親の無情、級友の無情。救いはない。永久の地獄があるだけ。そこに現れた天城はだから、真下の神だった。地獄に垂らされた一本の糸。真下は掴んだ。その糸を、決死の想いで掴んだのだ。救われた。天城に、助けられた。  ー天城が、必要だったよ。ずっと  いつの間にか、自分よりも弱々しくなってしまった天城の胸元に顔を埋める。骨張った身体のその内から、どくりどくりと、鼓動が響く。生きている。天城は、生きている。  ー……あんたにも、俺が必要だろ?  心臓に向かって問う。  真下は、閉じ込められていたわけではない。内から開かぬ場所に押し込められていたわけでもないし、鎖で繋がれていたわけでもない。ただ、外に出なかっただけだ。外に出るなと、天城に言われていた。けれど、出ようと思えば出られたのだ。古くて小さな1DK。天城は朝仕事に出かけ、夕方に帰る。真下は朝天城を見送り、物音を立てぬよう一日中、部屋の外の情勢をネット上で追いかける。何もできない自分でいることが、何よりも重要だった。天城はただ、何もできない真下を生かすためだけに生きていた。だから、天城を生かし続けるためには、真下は何も出来ないままでいなければならなかった。  誰にも。誰にも理解されない。誰にも、理解されたくない。させるつもりもない。ただ、真下の内にある真実はこう言っていた。天城を閉じ込めていたのは自分の方だ。逃げ出したのは、天城の方だった。  お前、もう外出ていいよ。  あの朝、天城はそう言った。嫌な予感がした。嫌な予感がしたから、待ってるよと真下は応じた。天城は困ったように笑った。困ったように笑って、何も言わずに家を出た。今になってみれば。あの時どうして天城を縛り付けてしまわなかったのか、甚だ疑問だった。ちゃんと、閉じ込めてやればよかった。天城が昔、自分を救ってくれたように。今度は俺が、あいつを縛り付けてやればよかった。  灼熱の部屋で、真下は何もせず待ち続けた。正確な日数は分からない。途中から意識は朦朧とし出したが、何も出来ないのだと唱える声は、その時ですら明瞭だった。俺は何も出来ない。何も出来ないままでいなければならない。天城が生きねばならない理由であり続けねばならない。  天城は多分、死のうとしたのだ。けれども、そうしなかった。出来なかった。俺の強情を知っていたから。警察に自首しに行った天城は、何よりもまず、自分の部屋に行って家にいる男を保護してくれと要求したらしい。  結局。天城は俺から逃げきれなかった。  真っ白な病室は冷房が効いていて、ごくごく快適な温度に保たれている。窓の外にどれほどの熱波が吹き荒れようが関係なく、閉ざされた部屋の中は時が止まったように一定に保たれ、朝も昼も夜も、昨日も今日も明日も、永遠に変わることはない。  「……関さん、」  何も言わない彼女に呼び掛ける。  「天城、死にたがりなので……死なせないで下さい」  振り返り、じっとこちらを見る目を見返して言う。  「もし、あいつを死なせたら、俺はきっと許せないから」  あなたたちを、この世界を、そうして、自分自身を。  俺と天城のことは、俺たちだけが知っていれば、それでいい。
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