ヒメユリ〈16〉(総会編10)

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/17ページ

ヒメユリ〈16〉(総会編10)

 大屋先生の声を振り切るように中村さんは言った。 「……私も濃厚接触者ってことで検査を2回受けましたが2回とも陰性でした。症状もなかったです。でももしかしたら無症状キャリアかもしれない。そう思うと自分の部屋からも出られませんでした。  会長。どうか……どうかもう新型コロナを甘く見るのはやめてください。会長のしてることはすべての感染者を侮辱する行為です。私だって本当は会長のこと……会長?……ちょっ会ちょ?」  中村さんの体がひときわ大きなミコちゃんの体に呑まれた。  中村さんは抵抗するように体をモゾモゾさせたが、すぐに脱力したように動かなくなった。  ミコちゃんはがっしりと彼女を捉えて離さない。  なにごとかとばかりに観覧席から声が湧く。  ミコちゃんの声がかすかに聞こえた。大丈夫だよ。  ミコちゃんは抱擁を緩めると、彼女の額に自分の額をそっと当てた。大丈夫だから。  そして彼女はなにごともなかったように踵を返し、スタスタと席へ戻った。  なかば放心状態の中村さんに大屋先生が寄り添う。 「……いいですか? 続きまして生徒会書記・佐々木理瀬より陳述をしてもらいます」 「はい」  立ち上がった瞬間、体が軽くよろめく。立ちくらみがしたせいなのか、ただ足が痺れていたせいなのかはわからない。なんにせよ、時は巡ってきた。わたしは決めたとおりのことを述べるだけだ。 「生徒会書記の佐々木です。きょうはお集まりいただきましてありがとうございます」  意外と口が渇いてる。マスクのおかげで口の周りはまとわりつくような湿気で満たされているが、唾液の分泌が就寝中のように減っていた。わたしは軽く舌を動かす。 「長かった休校期間が明け、不安の拭いきれない中ではありますが、わたしたちはようやく本当の意味で新学期を迎えました。今回残念ながらこのようなかたちで臨時総会が開かれることになりましたが、みなさまの声のひとつひとつを生徒会として真摯に受け止めたいと思っています。  わたくしごとではありますが、わたしと榊美琴の関係についてお話したいと思います。  もしわたしがミコちゃんと出会ってなかったら……。休校期間中、わたしはふと考えました。1年だったあの日、立哨当番で表に立っていた彼女に声をかけられてなかったら、いまわたしは存在しなかったかもしれない。生徒会にいなかったのは間違いないですが、そもそも生きていなかったかもしれないと。  中学に上がって間もなかったあのころ、わたしは生きることへの興味をなくしていました。いじめられてたわけじゃないけど、友達はいない。そんな環境の学校に通う意味がわからなかったのです。生と死の境界線上をただフラフラと歩いてる感じ。ふとしたきっかけでどちらにも転びそうで、あまり好きじゃないピアノの練習がきつくてどちらかと言うと死のほうへ傾いていた、そんな状態でした。  大丈夫?  あのときのミコちゃんのひと言はわたしの手をグイッと引っ張ってくれました。わたしはそのまま蟻地獄のように生徒会に引きずり込まれたわけですが、これが意外と嫌じゃなかった。学校に来れば、とりあえず自分になにか役目がある。それがただの雑用や朝校門のそばであいさつするだけのことであっても、そうした日々の連続がいままでわたしの命を繋いできたと。  突然休校になったことで、わたしはまた元に戻っちゃうのかなと不安になりました。コロナのこわさについては、実感がなかったというのが正直なところです。出口の見えない自粛生活、自分を導いてくれる友達の不在……。心にぽっかりと穴が開いてしまったような感じでした。  4月になって、突然ミコちゃんは「学校を再開させよう」と言いだしました。もちろん無理な話です。けれど彼女はあきらめず、学校がはじまるや中止になったイベントを取り戻そう、早く元の学校生活に戻そうとわたしを巻き込んであれこれはじめたわけです。  新型コロナってほんとにこわくないの? 自粛は、休校はほんとに必要なかったの? 気になったので2人の兄の協力を得てわたしなりにコロナについて調べてみました。それでいろいろ見えてきたんです。……ちょっと失礼します」  わたしはポケットから四つ折りにしたA4の紙を取り出した。 「……新型コロナは普通のカゼとほぼ同じ。感染力は強くて毒性は弱い。すでにいくつもの変異種が確認されてはいますが、坪井先生のおっしゃったとおり、基本的には数百種類あるカゼの原因ウイルスが1つ増えたと見ていいでしょう。普通のカゼとは言いましたが、「風邪は万病の元」「風邪をこじらせて肺炎になる」と言われるように、高齢者や持病のある人にとっては命取りとなる恐ろしい病気となり得ます。  PCR検査についても調べました。PCR法とは核酸増幅法と言いまして、遺伝子分野の研究やDNA鑑定にも使われる技術です。今回のコロナの場合、このPCR法を感染症診断に転用した技術でリアルタイムRT-PCRと呼ばれます。これを使いますと検査対象のウイルス、ここでは新型コロナですが、これの遺伝子の特徴的な一部分をプライマーと呼ばれる試薬と結合させ、倍々に増やして検出することができます。特徴的な一部分というのは人間で言うなら指紋です。PCRはインフルエンザなど他のウイルスにも陽性反応するという噂もあるようですが、新型コロナの遺伝子と結合するようプライマーを設計すれば、他のウイルスで陽性になることはありません。2つの指紋が一致したのにそれぞれの持ち主が別人だったなんてあり得ないでしょう?  なんでこんな手の込んだことするの? 電子顕微鏡でウイルスを探せばいいんじゃないの? とわたしは最初思いました。しかしウイルスはきわめて小さく、わずかな量の検体から探し出すだけでも途方もない作業になる。それは言わば地面に落としたコンタクトレンズを探すようなものです(※ 当然この方法は論外。PCRよりはるかに手間と時間のかかるウイルス分離法のほうがまだまし)。  さきほど検査の精度について感度70%、特異度99%という話がありましたが、実際の特異度は99,9%以上、つまりほぼ100%と考えたほうがよさそうです。つまりウイルスを保有しない100人の人を検査しても1人の擬陽性が出るわけではないと。PCRは実際のところ感染を調べる検査ではなく検体にウイルスがあるかどうかを調べる検査なので、感染力を持たない程度のウイルス量で陽性になることはたしかにありますが、ウイルスを含まない検体が陽性になることは原理的にあり得ないのです。感度70%については、検査の過程(※ 検体の採取やRNAを逆転写する段階)で遺伝子が損傷する場合があるのでだいたいその程度と考えてよいそうです。  PCRはいまある検査法としては最も精度が高く、コロナの診断に不可欠な検査です。資材が限られてるので無駄遣いはできませんが、コロナ感染者にならないために検査を受けなければいいという考えには賛成できません。  無症状の人に検査する意味はあるのかという問題はあります。たしかに無差別に検査して陽性者を隔離という発想は乱暴でしょう。ただし検査体制を拡充してできるだけ多くの人を検査をするのが無駄とは思いません。無症状の人というのはあくまで検査する時点で無症状なのであって、翌日発症するかもしれないのです。  ちなみに日本での検査の場合、遺伝子検出に至るまでのサイクル数(Ct値)の上限は40程度が標準のようです。この回数で検出に至らなければ陰性ということになります。40回と言いますとPCRで増幅できる回数の限界に近く、検体中の遺伝子は単純計算で1兆倍に増えることになり(※ ただしこれはPCRの増幅効率を100%維持した場合の値。現実にはサイクル数増加に伴い増幅効率は落ち、一般的に40を超えると増幅効果はほぼ得られなくなる)、やはりこれは多すぎと言いますか、これが原因でただたんにウイルスが付着しただけで感染はしていない陽性者が続出することになるわけです。  しかしさきほど言いましたように、PCRそれ自体は感染を調べる検査ではありません。あくまでウイルスの有無を調べる検査なのです。採取した検体からウイルスの遺伝子が検出されれば、たとえ感染には至らない量であったとしても、それは意味のあることなんです。なぜならその検体の持ち主は感染寸前まで行った可能性があるのですから。  新型コロナはヒトに感染することが新たに確認されたウイルスです。人類が後天的に備える獲得免疫に記憶がない、そのためいま感染爆発を起こしてるわけで、スペイン風邪の第2波のように今後毒性が強くなる可能性も否定できないのです。また数あるカゼのウイルスのうちこれだけが突出して流行している以上、集中的に叩くのは疫学的に合理的な政策であるかと。  とはいえ、さきほど松岡さんが言ったように、世界中に広まったウイルスをいまさら根絶できるとは思いません。だからしばらくは暗中模索でコロナと付き合うしかないのでしょう。わたしはコロナはそんなにこわくないですが、いままでたいして気にしてなかったカゼやインフルがこわくなったのはたしかです。知ってしまったことを知る前の状態に戻すことはできない、だからコロナをこわがる人の気持ちはわかります。いたずらに不安を煽るのはどうかと思いますが、かといって無責任に安心をうたうことはわたしにはできません」  わたしはメモをポケットに収める。 「学校に行きたい、イベントをやりたい、普通に暮らしたい、その気持ちはわたしにもあります。ただ公衆衛生と医療体制の維持という公共性を軽く見ていいわけではない。簡単に秤にかけらるわけではないのです。なによりみんなの気持ちを無視してしまった……。生徒会の一員として、また榊の友人として深くお詫び申し上げます」  静寂の中、わたしは深く頭を下げた。そして大きく息を吸う。 「以上の理由から、わたしは榊美琴を解任すべきであると考えます」
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!