ヒメユリ〈13〉(総会編7)

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ヒメユリ〈13〉(総会編7)

 ふう、と息をつくようにお兄さんが沈黙した。  その沈黙を受けてか大屋先生が口を開く。「要するにあなたと付き合うには平凡すぎるお嬢さんだったってわけね」 「理系って本来変わり者が多いんですけど、このコロナに関してはみんなが凡人に堕落した感じですね。平凡なのはいいことだけど、全体主義や付和雷同する国民性はよくない。そこから新しいアイデアやイノベーションは生まれないからです」 「で、その元カノさんに未練はないの?」  お兄さんはかすかに首を振る。「執着は不幸を招くだけですから。去る者は追わずってことでいいのです」 「だったら大屋先生に執着するのもやめんかい」坪井先生が席を立ち、失礼とマイクの前に立つ。「一応補足しとくと専門家のあいだでも意見は割れてるんだよ。コロナはたいしたことない、指定感染症からはずせって人も当然いる。でもそういう人はテレビにはほとんど出てこない。なぜって、視聴者が求めてるのは安心じゃない、不安だから。不安だからテレビに釘付けになって、自分の不安が正しいことの証明と不安を共有してくれる人を求めるようになる。テレビとしてもコロナは収束しましたチャンチャンではせっかくの高視聴率ネタをみすみす捨てることになる。だから「第2波がー」とか「新型コロナとの戦いはまだはじまったばかりだー」とか人気マンガの引き延ばしみたいなことになってんだよ。それに専門家じゃない人が意見しちゃいけないって考えがそもそも間違い。それなら情報番組でエラソーに意見述べてるキャスターやタレントはどうなんだって話だ。君が言ったノーベル賞学者ってのも疫学とか公衆衛生学の専門家じゃないよな?」 「さすが坪井先生、話がわかる。ありがたまきんです」 「だからお前いちいちギャグが……。ぶっちゃけ第2波って来ると思うか?」 「第2波ですか」お兄さんが少し考える素振りを見せた。「そう聞かれるってことは、坪井先生は第2波に懐疑的なわけですね?」 「……それはなんとも。でも第2波第2波ってメディアがしつこく騒いでるの見てるとかえって第2波って来ないような気がしね?」 「たしかに。ただまじめに答えますと、第1波レベルの第2波なら来る可能性は充分あると思います。とはいえ第1波と同じレベルであれば自粛も休校も必要ないし、政策としてそれらを行なう余力もないでしょう」 「まあこれまでの自粛で政府は財政再建に精一杯だし、学校も休校分の取り戻しで手一杯だもんな」 「けれど悲観的な予測も一応立てておく必要はあるでしょう。それはウイルスが変異して感染力が高まったり毒性が強くなった場合です。ウイルスの感染力と毒性は反比例するという説もあるのですが、確実ではないのでここでは無視します。もし新型コロナが変異によってインフル並みかそれを越えるような猛威を振るうことになればふたたび社会活動の停止は避けられません。ただその場合であっても、とくに気をつけるべきは高齢者や基礎疾患を持つ人であって健康な若者まで神経質になる必要はないと思います。少なくとも一般人がいまからそれを心配していても意味がない。  一方で楽観的な予測もあります。ウイルスは変異するとさらなる脅威になると思われがちですが、変異によって感染力が弱まったり弱毒化することも多いのです。なぜならウイルスがヒトや動物に感染するのは自己複製、つまり子孫を残すための手段であって宿主(やどぬし)を殺すのが目的ではないからです。我々人間がウイルスとの共生を模索する一方、ウイルスもまた宿主との共生を目指しているということです」 「なるほどな。第2波のことは考えなきゃいけないけど、心配しすぎる必要もないと」 「ええ。それに悲観的予測というのは唱えるのにあまり勇気はいらない。はずれればはずれてよかったで済まされるから。逆にはずれて叩かれる楽観的予測は唱えにくいものです。専門家の意見を聞くときはその点を考慮に入れるべきです」 「というわけだみんな」坪井先生が観覧席へ呼びかける。「コロナはもう心配しなくていい。もともと何百種類もあるカゼの原因ウイルスがたった1種類増えただけなんだから」 「先生!」大屋先生が声を上げる。「心配しなくていいなんて指導の方針と異なります。無責任なこと言わないで」 「じゃあ大屋先生はみんながウイルスにビクビクして、暑いのにマスクして、クラスメイトとの距離も空ける、そんな環境が健全だって言いたいんですか?」 「決まってるでしょう! まだ学校再開したばかりなのにウチから感染者が出たらどうするつもり? 最悪また休校になっちゃうでしょう? そうなったらまた自宅学習に逆戻りじゃない」 「大屋先生」お兄さんが言う。 「なに? あなたはまだ学生の身分だから好き放題言えるのかもしれないけど、私たちはそういうわけにいかないの。公務員だから。坪井先生もわかってんでしょ?」 「俺はコロナのためにこれ以上生徒にがまんを強いるくらいなら、教師辞めます」 「はぁ? バカじゃないの? 俺は教職に生涯を捧げる、付いてきてくれないかって私のこと口説いたくせに!」 「なっ! そんな俺のことあんた振ったろ!?」  マジかい……。 「先生方っ!」とうとう西原くんの声が飛んだ。「痴話げんかなら生徒ノイナイ所デヤッテモラエマセンカ?」  2人が沈黙し、観覧席はざわついている。 「大屋先生」お兄さんがふたたび言う。 「なに……。学校の感染対策に文句あるなら文科省か厚労省に言ってよ。私たちは上から指示されたとおりに最善を尽くすだけ。たとえなにかがおかしいと思ってもね」 「俺、先生のそういうとこ好きです」 「はぁ?」 「そういうきまじめなとこ。先生は与えられた条件の中で精一杯やってる。杓子定規で淡々としてるように見えるけど、生徒のことをしっかり考えてる。コロナで生徒はたいへんな思いをしたけど、先生たちはもっとたいへんだった」お兄さんがちらっとミコちゃんを見やる。「美琴がそう言ってました」 「……。だったら少しはいたわってくれないかしら」 「美琴が先生に苦労をおかけしたのは事実でしょうが、それは先生を信頼してるからだと思います」 「違う。私は舐められてるだけ」 「そうですかね?」坪井先生が言う。「榊ってどんな相手にも全力でぶつかってくタイプですよ。僕のときもそうでしたし。それに大屋先生がただ舐められてるだけなら「先生に見届けてほしい」なんて言葉は出てこなかったと思いますけど」 「そういうことです。さあ大屋先生、坪井先生のことは忘れて僕とゴールインしましょう!」 「ああん!?(坪井)」 「あなたね……」大屋先生が怒りに駆られたように拳を作る。「そんなに私のこと好きならもうちょっと英語がんばってくれてもよかったんじゃない?」 「あーそこ突いてきますか……」 「すいません大屋先生」ミコちゃんがとうとう席を立ち、介助するようにお兄さんのそばに寄る。「ほらお兄ちゃん席戻ろ」  お兄ちゃんがおじいちゃんに聞こえてしまった。 「あなたたち兄妹はもう……。榊さんは英語がんばってるのにね。そこは感心するよ。それに引き替えお兄さんは英語だけがだめだった。私嫌われてるのかと思ってたもん」 「兄の英語嫌いは筋金入りで高校でも単位落としかけたくらいです。訳のわかんない洋楽とかクラシックは聴くくせにね」 「お前も少しはクラシックとか聴けよ。俺がやったウォークマンの中身アイドルソングばっかだろ。ジャンクフードばっか食ってねーでたまには高級フレンチも食え」 「失礼な! アイドルソングがジャンクフード? 全国のジャニオタにぶっ殺されるよあんた! あ、AKBオタにもか。ちなみに女性アイドルはAnge☆Reve(アンジュレーヴ)とマジカル・パンチラインが好き。坂道シリーズも好きだけど欅坂みたいにメッセージ性が強いやつは引いちゃう」  どの口が言うか! と坪井先生が怒鳴ったのを皮切りに非難の声が轟々と湧き起こる。 「まあきょうだいがなのって私たちに言わせればあるあるなんだけどね。ただお兄さんの場合、ほかの教科の出来がよかっただけにほんと惜しい。英語さえできればグローバルに活躍できる人材になれるでしょうに」 「いや~日本の科学技術のレベルを考えると必ずしも海外へ行く必要ってないと思うんですよ。なんですかね、英語を母国語とする人たちと同じ土俵に上がろうとする行為がむだと言うか無謀と言うか相手の思う壺と言うか……。あんまし日本人が必死で英語を学ぶ意味ってないと思うんですよ。僕の場合そんなことするくらいなら数学とかに時間費やしたほうがいいかな~って」 「あなた私にケンカ売ってんの!?」大屋先生が声を荒らげる。「まあいいや。西原くん。予定にはなかったけど少し私から話をさせてもらっていい?」 「どうぞ」と西原くんが言った。「大屋先生以外の方は席にお戻りください」
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