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ヒメユリ〈5〉
はぁ。自分でも認識できるほどはっきりと音を持ったため息がもれ、マスクの中にじっとりとした湿気が広がる。薬では鎮静できない頭痛に悩まされることも多くなってきた。梅雨入りしたせいだろうか。せっかく学校が再開されたのに天候も気持ちもちっとも晴れない。白い半袖のセーラー服は軽快だが、学校へ向かう足取りは重い。地面からピチャッと音が立つ。うっかり水たまりを踏んでしまったのだ。
従来なら文化祭を予定していた土日もあっけなく過ぎ去った。そんな行事は最初から存在しなかったかのように、そのことについて口にする人はいなかった。発表の機会をまたひとつ失った文化部の人でさえ……。
せっかくミコちゃんと同じクラスになり、しかも前後の席順になったのに、彼女との関係さえこれまでのようにいきそうにない。
すべて仕方ないんだろうか。諦めるしかないんだろうか。
諦めきれれば、むしろ楽なのに。
「お前さ、なんでそういうよけいなことすんの? 文化祭も合唱コンクールもないなんて最高じゃん」
「それはたんに君がやりたくないだけだろ」
「お前だって合唱は好きじゃないって言ってたろ?」
「そういう問題じゃないんだ。イベントに命懸けてる子だっているんだから」
「イベントに命懸けてコロナで死んだら意味ないだろ」
「イベントに命懸けてコロナで死んだら、私なら本望だけどな」
始業前の教室。ミコちゃんと目つきの悪い男子が話してる。お互いマスクも着けず、飛ぶ唾が届きそうな距離で。
「でもまあ人はそう簡単に死なないし、逆にあっけなく死ぬことだってあるよ。コロナに罹っても助かる人は大勢いるし、ただのカゼで死んじゃう人だっている。要は普通の生活を犠牲にしてまで心配しても意味ないってこと」
「やけに達観してんな。中坊のくせに」
「君『達観』なんて言葉知ってたんだ」
「これでも誇り高き仏教徒なんでな。とにかくいまの状況は俺にとって都合がいんだよ。このまま体育祭も持久走も中止になってくれりゃ──」
ガタッ! いきなり音を立ててミコちゃんが立ち上がる。
「そんな君に耳寄りな情報があんだ」ミコちゃんは目つきの悪い彼に濃厚接触どころかキスと見まがうほどの至近距離に迫る。「近々この学校でちょっとしたイベントが開かれる」
「イベント?」
「そう、生徒会主催のね。野崎彰っ! イベント嫌いの君でも存分に楽しめるから参加したらいいよ~」
「なんだそれ」
ミコちゃんはクルッと方向転換し、この状況に注目したみんなを見渡す。
「イベントに飢えたみんなのために私がショーを演じてあげるの。私を嫌いな人は全員参加だよ!」
容姿の魅力的な人はそれだけの理由でその言動が耳目を集める。
この点も相まって、ミコちゃんは生徒会長として絶大な支持を集め、そしてこのたびの常識はずれな言動であまりに多くの顰蹙を買った。
しかしながらミコちゃん自身はこの状況をむしろ堂々と受け入れている。
彼女が生徒会長でいられるにはどうしたら……。
「詰んだわ……」
「ツンダ?」
「いや。ぶっちゃけ遙はミコちゃんのことどう思う?」
「さあ……どうかな」
遙は言葉を濁したが、結局そういうことなのだろう。
霧のような雨がしきりに降っている。傘が干渉しないようわたしたちは間隔を空け横に並んで歩く。閑散とした道だがときおりクルマが水しぶきを上げ通り過ぎてゆく。通学路。次の瞬間にもわたしたちが死ぬ可能性はゼロではない。が、これがまぎれもなくわたしたちの待ち焦がれてた日常なのだ。相手がトラックとかなら一瞬だろう。きっと自分が死ぬことにすら気づかない。
なんてヘンなことを考えていると、遙が重たげに口を開く。「部活のからみでミコちゃんにはお世話になったけど、ああゆう言動はどうかと思うよ。危機感ないしみんなの努力否定してるし。私たち、ウイルス広めないためにって納得してぜんぶ我慢したんだよ。みんなには来年がある、私も高校で吹奏楽続ける、だからいまは耐えようって呼びかけたし。で、家でずっと泣いてた。みんなには割り切ったふりしてるのにほんとはぜんぜん割り切れてなくて。せめて文化祭では演奏したいって思ってたのにそれも叶わなくて」
「ごめん。つらいこと思い出させちゃって」
「いいよ。聞いてほしかったから。引退も同然になっちゃったけどさ、一応まだ副部長だしみんなとは連絡取り合ってるよ」
遙はわたしと同じで150センチくらいの背丈しかないが、芯の強さはミコちゃんに見劣りしない。彼女は彼女でこの状況と闘ってきたのだ。
「ねえ理瀬」遙が言う。「ミコちゃんとはもう関わんないほうがいい」
わたしは足を止めた。遙も立ち止まり、わたしに向き直った。
「ミコちゃんってやっぱおかしいじゃん。おかしい人だよ。距離置いたほうがいいって。このままじゃ理瀬まで悪いことに巻き込まれちゃう。私だって無視みたいなことはしたくないけど……」
「遙」わたしはじっと彼女を見つめた。「合唱コンクール、やりたくない?」
「合唱? なに言ってんの無理だよ。合唱なんておもいきし『3密』揃ってんじゃん。まさかマスクして歌うわけにもいかないし」
「やり方なんていくらでもある。7月じゃなくたっていいし」
「理瀬はそこまでしてやりたいの?」
「知ってると思うけどわたし去年もおととしも伴奏だった。ことしこそはみんなと歌いたいなって」
「それだけ?」
「それだけだよ。充分な理由だと思うけど」わたしは胸を張って言った。「ねえ遙、本音を聞かせてよ。残ってる音楽系のイベントってこれだけなんだよ」
「……そりゃ私だって」
遙がうなだれた。ふいにその手から傘が落ちた。彼女はその場にしゃがみ、小さな肩を震わせた。
わたしは傘を差したまま遙の傍らにしゃがみ、短くかわいらしいポニーテールの生えた頭を撫でる。
「ありがとう遙。おかげでわたしの選ぶべき道が見えたよ」
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