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ヒメユリ〈8〉(総会編2)
「では気を取り直しまして」坪井先生が観覧席へ向けて話しだす。「社会科の坪井です。今回の榊の暴走について私なりの意見を述べさせてもらいます。あ、これは授業じゃないのでリラックスしてくれていいですよ。退屈なら居眠りしてもらってもいいし。僕としては堅苦しくならず楽しくやりたいと思ってます。榊もこう見えてやる気まんまんだしね。
僕からお話しするのは、みなさんにとってすごくいい知らせです。
それは新型コロナなんてじつはぜんっぜんたいしたことない、ゲームの最初に登場する敵のようなザコキャラだということです」
「坪井先生!」いきなり叫ぶような声を上げたのは、最初に意見書を読み上げたなんとかさんという女子だった。「なんでそうゆうテキトーなこと言うんですか!」
「意見があるときは挙手してください」と西原くんが呼びかける。
「うるさい! 西原くんが会長のこと野放しにするからこんなことになってんじゃん! 坪井先生、なんで会長かばうんですか? 見損ないました」
「川内さんはコロナが怖いか?」
「怖いに決まってるじゃないですか!」
「なぜ怖い?」
「なぜ怖いって……だっていっぱい人が死んでるじゃないですか」
「そうだな。たしかに人はいっぱい死んでる、毎日。日本では1日に3000人以上が亡くなってるよ。厚労省の資料によればがんが最多で1000人近くを占めてる」
「そうじゃなくてコロナで」
「コロナによる1日ごとの死者はこのところ10人前後で推移してる。1日の死者の総数をざっくり3000人とするとおよそ0,003%だ。これを多いと見るか少ないと見るかは君しだいだが、残る2990人の死者についてはどう思う?」
「それは……気の毒だと思います」
「気の毒か。君がその1人になる可能性は考えたことはあるか?」
「それは……あんまりないです」
「そうだよな。死者が3000人とは言っても1億2000万の人口からすればわずかな数だ。まさかきょう自分がそのうちの1人になるなんて健康な若者ならまず考えない」
「でもやっぱコロナは別ですよ。若者だって罹るんだし、誰かに移しちゃうかもしれないし。先生は私たちの誰かがコロナになってもいいってゆうんですか」
「いいわけないだろう。もちろんこの学校の誰かがコロナに罹ってると判明したら学校休んでもらうことになるよ、インフルと同じで。でもいまのところそういう人はいない」
「いるかもしれないじゃないですか! 無症状の感染者が」
「たしかに潜在的な感染者はいるかもしれないね。その可能性はゼロじゃないよ。でもだからってどうする?」
「どうするって……」
「そのゼロでない可能性のためにまた自粛する? 休校にしてイベントもぜんぶ中止する? おかしいな~。死者年間1万人も出してるインフルで学級や学校閉鎖することならまれにあるけど、全国規模で休校なんて聞いたことないな~」
「でもコロナってやっぱり怖いじゃないですか。ワクチンないし」
「そうだ、ワクチンがないよな。ワクチンがないってのはたしかに怖い。もし流行してるのが感染力も致死率も高いエボラウイルスだったら先生だってびびって家に引きこもっちゃうよ。かといってワクチンがあれば安心とも限らないんじゃないか。なにしろインフルなんてワクチンも治療薬もあるのに死者1万人だからな」
「……」
「どうだ、エボラやインフルに比べたらコロナなんてただのザコだと思わないか」
「でも……やっぱり少し怖い」
「そうか。じゃあ前ほどには怖くなくなったってことだな? いいことだよ。冷静にデータ見て適度に気をつければ済む話なんだ。せいぜい手洗いと消毒を徹底するだけでいい。人と人とを分断することなんてない。オンラインで授業したところでぜんぜん学校行った気になんないだろ? 友達にだって会えないもんな。それにな、過剰な恐怖ってのは人間不信を生むんだよ。これが感染者への差別につながってく。このままじゃハンセン病の歴史の再現になりかねない。君のまわりにいる人たちはウイルスじゃない。君と同じ人間なんだよ」
「でもやっぱり会長はおかしいです。みんなが自粛してるときに自粛は無意味なんて」
「その自粛はなんのための自粛だった? 感染予防って名目だったけど、自粛のための自粛じゃなかったか?」
「自粛のための自粛ってなんですか意味わかりません」
「それはこういうことだ。欧米や中東の一部の国では日本と桁違いの感染者と死者が出た。その際、ロックダウン、つまり都市封鎖って言葉が日本に入ってきた。日本はこれを猿真似したんだ。国内の実態なんてなんも見ずに、ただ欧米に倣えって。日本も欧米みたいになるぞって。ぜんぜんなってないけど。まあオーベーへの憧れが強すぎるのかもね。
逆にヨーロッパでもスウェーデンはロックダウンも自粛もしない緩めの政策を取ってるよ。ちなみに死者は3000人以上、人口は1020万ちょっと。つまり人口あたりの致死率は日本よりはるかに高い。それでもスウェーデンは日常生活をできるだけ壊さず、ウイルスと共存する道を選んだってことだ。
話は変わって日本では4月1日ごろをピークに新規感染者数は減少に転じていた。なのにその後緊急事態宣言が出され国民は自粛生活を強いられた。いや、国民がみずから進んでその道を選んだと言うのが正しいかな。これを君はどう思う? この場にいるみんなはどう思う?」
坪井先生の声の残響が消えても反応する者はいなかった。館内が数秒、静まり返った。
「メメント・モリ。死を思え。自分がいつか死ぬことを忘れるなって意味のラテン語だ。この言葉の本来の趣旨とは違うが、俺ならこう解釈する。人は必ず死ぬ。だから死を恐れていても意味がない。いつ死んでも悔いが残らないよう生きろと。青春は短いぞ。無為に引きこもってるなんてもったいない。
俺は教師としてもこの国の大人としてもみんなに申し訳なかったと思う。長らく学校休ませて」
「坪井せんせー!」
そのとき観覧席の中から声変わりしていない男子の声が上がった。
「なんだ、意見があんならなんでも言ってくれ」
「テレビとかでは家にいようって言ってましたけど、あれって間違いなんですか?」
「なにが正しいかは、悪いけど君が判断してくれ。ただ俺が言いたかったのは
NO! Stay Home.
Let's GO OUT!
ってこと」
「先生発音へた~」と川内さんが笑いだす。
坪井先生もヘラヘラ笑う。「じゃあここはひとつ大屋先生に手本を──」
観覧席後方で見守っていた(英語の)大屋先生はすでにつかつかと早足で歩きだしていた。彼女はマイクの前に立つ坪井先生にまっすぐ向かう。
「大屋せんせ……?」
彼女は坪井先生の至近に迫ると、その上着の襟をいきなり掴んだ。
「あなたこんなこと言ってどうなるかわかってんの?」
「は?」
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