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ヒメユリ〈1〉
「一日あたり3万人。これはピーク時におけるインフルエンザの感染者数です。死亡者数は2011年以降増加傾向にあり、去年とおととしは直接死だけで3000人を超えています。肺炎を併発した場合や持病を悪化させた場合の関連死を含めると1万人以上というありさまです。
これに対し新型コロナの場合はどうでしょう。感染者数は暗数の存在があるためはっきりしませんが、仮にインフル並みの感染力だとするとすでに数十万から数百万の感染者がいてもおかしくありません。なにしろワクチンがないのですから。ただし死者数はいまのところ800人弱で、残念ながら1000人には届きそうな勢いですがこのところは減少傾向です。またこの数字は関連死を含めた全国の累計です。つまりですね、新型コロナはインフルに比べて明らかに感染力が弱いか、あるいは致死率が低いことを意味すると思うんです。たかがアジアの風邪と見くびっていた欧米に比べ、日本は医療技術や制度が優れていた結果ともいえるでしょう。
本題です。これ以上の自粛に意味があるのでしょうか。
3月から長らく休校が続きました。修学旅行は中止、文化祭も中止が決まっています。この分だと7月の合唱コンクールも中止になるのでしょう。
安全最優先という学校や行政の方針は否定しません。けれど安全に偏りすぎていては社会は成り立ちません。現に私たちは徒歩や自転車で学校に通っています。危険な通学路、たくさんあります。つねに事故死する可能性はゼロではないのです。ですが私たちが事故を恐れて引きこもることはありませんし、それが許されることもありません。
800を1億2000万で割ってみてください。これがいまのところ日本で新型コロナで死ぬ確率です。
私たちはこれ以上学校生活を壊されることを望みません。今後の行事予定を考え直していただけませんか。以上です」
準備していたメモに一度も目を落とすことなくミコちゃんは訴えた。
その傍らに添え物のように立つわたしは、ただ縮こまった気持ちで聴き手たちの反応に目を凝らしていた。
静まり返った職員室にため息のような声がいくつか漏れる。
「気持ちはわかるんだけどね……」。その声は教職員のリアクションを象徴していた。だからって我々にはどうにもできないというのがかれらの本音であり、現実だった。
「榊さん」責任者の貫禄を見せるように校長が沈黙を破る。ふくよかな体格と人のよさそうな笑顔がチャームポイントの彼女だが、いまこのときばかりは数学の難問に取りかかるような険しい表情を浮かべていた。「あなたたちの気持ちはよくわかりました。ただ今後の行事予定については状況の推移を見て適宜判断することになるので、いまの時点で即答はむずかしい」
きっとおおかたの方針は決まっているのだろう。校長の言葉はたんにその告知の先延ばしを求めているだけだ。けれど彼女の苦悩がまだ中学生にすぎないわたしにもわかる気がした。
どうか私たちの声を聞いてください──。ミコちゃんの『演説』はそんな切実な訴えかけからはじまった。それだけに校長の言う「あなたたち」がどの程度の範囲を指すのか、わたしは考えずにいられない。
「状況の推移とは、感染の拡大のことですか」ミコちゃんの声調がなにかを疑るようにいくぶん低くなる。「それとも世論の推移ですか?」
「もし感染のペースが現状よりも衰えないようであれば、あるいは再拡大するようであればさらなる行事の中止や再度の休校もありうる。もちろん行政の意向も考慮に入れます。世論というのは自粛ムードのこと?」
「そうです。仮に感染のペースが衰えても世間の自粛ムードが続くこともあり得ます。逆に感染拡大は続くのに世間が自粛疲れを起こすっていうこともあるでしょう」
「学校としてはあくまでデータで判断するよ。日和見で判断することはありません」
少しの沈黙ののち、「わかりました」と抑えた声でミコちゃんは言った。この場でこれ以上喰い下がるのはさすがにはばかれたのだろう。
「あー僕から質問していいですか」場違いに陽気な声が上がる。「榊さんの主張ってたしかに世間の風潮とだいぶかけ離れてるよね、まあいまのところはだけど。その点は大丈夫?」
「失礼ですが、大丈夫とは?」
「つまり猛烈なバッシングを浴びる可能性があるってこと。君の主張を公にすればの話だけど」
「……」
「もし批判を受けてあっけなく謝罪に転じるようならいまのうちに撤回したほうがいい。俺たちも聞かなかったことにするよ」彼の言い方はまるで挑発するようだ。
「坪井先生」と別の所から声が上がる。
「撤回するつもりはありません。批判を受ける覚悟はできてます」横槍に構わずミコちゃんは応じた。「休校取りやめの署名を呼びかけたときもそうでしたから」
「ほう。佐々木さんは?」
ふいに意見を求められわたしは固まった。促すようなミコちゃんの視線に気づいた。
「わたしは……どんな展開になろうと榊さんをそばで支えたいと考えています」
こう答えるのがわたしには精一杯だ。ミコちゃんの持論に直接同意を与えるのは危険すぎる。
「そう。なら一度生徒の意見を募ってみるのもいいかもしれませんね」
「坪井先生」先ほどより明らかに大きな声が上がる。
「いいじゃないですか大屋先生。僕も担任として榊を受け持ったことありますけど、彼女芯は相当強いですよ」
「いまは私が担任です。まずは私が彼女たちと話し合って……」
「話し合って?」
「……。とにかく話し合ってみます」
「説き伏せると」
「話し合うんです。簡単に結論の出ることではないはずですから」
「どう? 榊さん」2教諭のやりとりを遮るようにあらためて校長が問う。「あなたの主張を通すのは茨の道だよ」
「わかってます。でも後悔はしたくないので。私たちは思い出づくりのために学校生活を送ってるわけではないですけど、将来いまを振り返ったとき中学最後の年はコロナでなにもできなかったなんてさびしすぎると思うんです。生徒会長としてみんなにもこんな思いはしてほしくない。主要なイベントは上半期に集中してますから、いま動くしかないんです」
「佐々木さんは?」
「わたしは」わたしはいったん息を呑み、動悸を鎮めるように胸に手を当てた。「わたしはせめて合唱コンクールはやりたいです」
効き目の強い市販薬を飲んだときのように、わたしの口はカラカラに渇いていた。
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