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誰の後もついていってないのに、私が傷ついているのはなんでなんだ。
私の歩みのスピードは、さらに加速する。
気付けば、校舎を出て手洗い場に向かっていた。顔でも洗って、スッキリしたかったからだ。
校舎の角を、機敏に旋回する。
すると、そこには男子の後ろ姿と、それに向かい合う瀬奈さんの姿があった。
「だからさ、俺と付き合ってほしいんだよ」
……これは、マズイ。とんでもない場面に出くわしてしまった。
勢いよく進んでいた両足に急ブレーキをかけると、私はそのまま微動だにせず固まってしまう。
「……あのね、じゃあ聞きたいんだけど」瀬奈さんは動揺も見せず、いつもの調子で口を開いた。「あんたと付き合って、私になんの得があんの?」
「それは……映画見たり、飯食いに行ったり、電話で話したり……げ、元気ない時は、励ましたりしてあげられるぜ」
男子は、シドロモドロになりながら答えた。
瀬奈さんが大きくため息をつく。
「わっかんないかなぁ。あんたじゃ、役不足だって言ってんの。はっきり言わなきゃ察してくれないの?」
男子の心境を思えば気の毒になる程、痛快なフリ方だ。
私はオイルの切れたロボット然とした、直立不動の姿勢を崩せずにいた。
「そうかよ……お前に告った、俺がバカだった」
男子は情けない捨て台詞を吐いて、こちらに向き直った。
当然、私と目が合う。同級生かと思ったら、3年の先輩だった。
「直接言うだけマシだったけど、最後の言葉がそれじゃあねぇ。そんなだから、彼女のひとつもできないんだよ」
容赦ない瀬奈さんの追い打ちを背中に受けながら、先輩は私から視線をそらし、バツが悪そうに私の隣をスタスタと横切っていった。ズボンの両ポケットに、手を突っ込みながら。
「……あなたも、そう思わない?純原さん」
瀬奈さんは何事もなかったかのように、あっけらかんと私に聞いてきた。
「そうだね。瀬奈さんの言う通りじゃない?」
なぜか、私は無理して堂々とそう答えた。
「でしょ。……明日香でいいよ」
言いながら彼女は、手洗い場の横にある水飲み機に向かった。私はカチコチになったまま、その様子を眺めている。
「私も、楓って呼ぶからさ」
私は首だけコクコクと頷いて、それに了解した。
瀬奈さんはそれを確認すると、顔を傾けて水を飲み始めた。
冬の澄んだ空気の中で陽気に照らされたその姿が、なんだかとても美しく、カッコよく見えて、私はただただ見とれていた。
「……ふう」飲み終えると、濡れた髪をかき上げながら、見つめる私に顔を向けて彼女が笑った。「楓も、飲む?」
私は、再びコクコクと頷く。その時、ようやく神経に脳から信号が行き届き、固まっていた体が動いた。
導かれるまま、フラフラと瀬奈さんの隣へ行くと、彼女はもう一度水を口に含み始めた。
そんなに、喉乾いてるのかな。
そう思いながら、すぐそばでその美しい横顔を眺めていた次の瞬間。
「……!!」
頭に、電流が走った。
この世のものとは思えない柔らかいものが、勢いよく私の唇を奪ったのだ。
あまりの出来事に思考が追いつかず、私はとにかく目を瞑った。それしか、反応ができなかった。
そのまま、唇を優しくこじ開けられたかと思うと、冷たい水が口の中に、ゆっくりゆっくり流し込まれるのがわかった。
とろけそうに甘く感じるその水を、私は確かめるように無我夢中で、コクリ、コクリと喉を鳴らしながら飲み込んだ。
瀬奈さんは、嗅いだことがないくらい、いい匂いがした。
私は彼女の、高貴な花のようなその匂いを堪能しながら、流し込まれた全ての水を平らげた。
唇が離れる。甘美なひと時は、あまりにも短く、そして長くも感じた。
「美味しかった?」
私は膝から崩れ落ちながら、またコクコクと首だけで返事をするのがやっとだった。
「……かわいい」
瀬奈さんはそう言うと、座り込む私の頬をそっと撫でてから、校舎へ向かって歩き出した。
私は振り返ることもできず、ファーストキスの余韻に浸る他なかった。
何が起こったのかわからなかった。
これは本当に現実なのかと、疑った。
だけど、瀬奈明日香の唇の感触は、確かに私の唇にはっきりと残っていた。
トイレでの出来事なんて、すっかり頭から抜け出ていた。
ただ、瀬奈さんの匂いと、瀬奈さんの感触だけが、私の心臓を鷲掴みにしていた事だけは、間違いなかった。
胸の高鳴りが、止まらない。
ずっと閉じたったままだった私の心の中の蕾が、ゆっくりと花開きかけているような気がした。
to be continued……
後編
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