後編

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後編

 おかしい。こんなに少し走っただけなのに、口の中がもう鉄の味でいっぱいだ。  体が、重い。  呼吸のリズムはとうに乱れ、心臓が激しく脈打っていた。 「純原、どうした!」  顧問の怒号が飛ぶ。  いつもは無心で走れていたのに、私の頭の中に残っていた雑念が、体力をかつてないスピードで奪っていったのだ。 「あっ!」  ついには足がもつれてしまい、私は勢いよく前のめりに転んだ。口の中に砂利が入ってくるのと同時に、両腕と片膝に鋭い痛みが走る。  私は仰向けになると、荒くなった呼吸で落ちて行く夕日を眺めながら肩で息をして、大の字のまますぐに立ち上がれずにいた。 「だ、大丈夫ですか?先輩」  すぐ後ろを走っていた後輩の女の子が、私を心配して駆け寄ってくる。  やめて、気にせず行ってよ。  私はそう思いながら、その子から顔を背けた。 「止まるな!走れ!」  再び顧問が、今度は後輩に向かって叫んだ。  ほらね。こうなるんだから。  後輩は一瞬迷ったように私を一瞥した後、再びトラックを走り始めた。それを見送った後、立ち上がろうと片足に力を入れる。 「つっ……!」  私は膝の痛みでバランスを崩して再び倒れそうになったが、また誰かに心配されてはたまらないと、なんとか踏みとどまった。見ると、右膝は真っ赤な血に染まっていた。いや、右膝だけじゃない。倒れた時に顔を庇った両腕からも鮮血が滴り落ちている。 「どうした、らしくないじゃないか」  私に近寄って来た顧問の言い草に、あんたが私らしさの何を知ってるんだ、と言い返してやりたかった。 「……ひどい傷だな。どうする、保健室へ行くか?」  どうするってまさか、この状態で走らせようって気なの?  続けざまに頭の中で反抗的な言葉を浮かべながら、私は足を引きずって無言でトラックから離れた。 「俺が連れて行きます。ちょうど、休憩なんで」  顧問のそばにやってきた大智が、額の汗を拭いながら言った。 「1人で行けます!」  私が慌ててそう言ったのも聞かずに、顧問が頷く。 「そうか。じゃあ、頼んだぞ弓川」  大人しくしてるのをいい事に、私の意見なんていつもあっさり無視される。才能があるだの、記録を狙えるだのと乗せられて、結局部活を続けてる私も私だけど。 「きゃっ」  痛みで足にうまく力が入らず、トラックから離れた途端、私は情けない声を上げながら尻餅をついた。 「無理すんなよ、ひでぇ怪我だぜ」  大智がそう言いながら手を差し伸べてくる。が、私は両手を地面につけて自力で立ち上がった。 「1人で行け……るってば」  顔を歪めながらそう言ったが、露骨な強がりである事は明らかだった。 「いいから、ほら」  大智が、こちらに背を向けて座り込む。 「なに、ほらって」 「おんぶだよ。さっさと連れてってやる」 「いいよそんなの。血、ついちゃうし」 「そんなのどうってことないさ。さっさとしろよ」 「いいって言ってるじゃん!」 「お姫様抱っこの方がいいのか?どっちがましだ」 「……おんぶ」 「なら、ほら」  私は、ため息をひとつついて、ついに観念した。遠慮がちに、大智の背中へ体を預ける。 「よし。痛むだろう?」 「……うん」  不思議だった。こんな事を提案してくる大智の大胆さもそうだし、絶対こんな事に従うタマじゃない自分自身の諦めが。 「しっかり捕まってろよ」  大智はそう言うと私をしっかりと担ぎ直して、保健室へと歩き出した。  父さん以外におんぶされたのなんて、初めてだった。彼は私の体重なんてものともせず、スタスタと早歩きをしている。  操が見たら、なんて言うだろう。この姿を見た誰かに、話を聞くかもしれない。  だけど、それがなんだって言うの?  私は昨日の昼休みのトイレでの出来事を頭に浮かべながら、もうどうとでもなれ、と、気にするのをやめることにした。  幸い、保健室までの道のりは他の生徒に目撃されることがなかった。他の陸上部員からは注目を集めてしまっていたけど。  大智が、私を器用に片手で担ぎながら、もう片方の手で保健室の扉をガラリと開けた。 「先生は……いねぇな」 「鍵をかけてないのに?」  大智の背中越しに、保健室を見渡す。 「トイレにでも行ってるんだろう」  そう言いながら、彼は丸椅子の上に私をゆっくりと降ろした。 「あり、がと」  よそよそしくお礼を言いながら、曲げると痛いので右足を伸ばしたまま腰をかける。 「っと、確か……」大智は、おもむろにキャビネットを開いたり、引き出しを開けたりし始める。「あったあった」  振り返った彼は、消毒液にガーゼとテープ、タオルまで手にしていた。 「ちょ、ちょっと、そこまでしなくていいって」  慌ててそう言った私の目の前をサッと横切り、水道でタオルを濡らし始める。
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